6-4
ローズマリー先輩から託された、穢香の記録データを抱えて研究棟を出た瞬間、胸の奥がぞわりと波打った。
再現映像を一度見ただけで、鼻腔の奥にざらつきが残る。あの夜、先輩が暴走した理由――香りの層で何が起きていたのか。
解き明かさない限り、次は誰が取り込まれるか分からない。
……でも、このデータを読み解けるやつは限られている。
俺が向かったのは、異香班の“隠し球”。学園で一番の変人にして、たぶん一番の天才――ジンジャー。
異香班の研究室は半地下みたいな構造で、薄暗くて、ほんのりスパイシー。
何十種も香料が渦を巻いているはずなのに、全体は奇妙に調和していた。
油断すれば一息で酔い潰されそうな、危うい静けさ。
「やぁ、スペアくん。珍しいね、こんな時間に」
実験台に腰をかけ、片手にビーカー、もう片方で煙を払うように手を振る。
距離感も空気感も、相変わらずどこかずれている。
「このデータ、解析してほしい。……穢香の件だ。
調香師様も急ぎだって。頼めるのはお前しかいない、ジンジャー」
「ふむ」
ファイルを受け取った彼は、数秒で目を走らせ、あっさりと肩をすくめた。
「面倒だな。――やれないことはないけど」
視線がこちらをとらえる。楽しげで、企みを隠す気ゼロの目。
「僕が協力してもいい条件がひとつある」
「……なんだよ」
「香水結び。君と」
「は?」
変な声が出た。
香水結び――二人の香りを完全に混ぜ合わせ、新しい香りを生む“儀式”。軽々しくやるもんじゃない。
心も香りも深く繋がるからこそ、覚悟がいる。
けれどジンジャーは悪びれず、さらりと続ける。
「安心して。“仮結び”だよ」
「仮……結び?」
「うん。正式結びの前段階。
香気を完全重ねはしない。互いの反応と相性を確かめる試験的融合。
僕の研究では――だいたい恋愛の初期、みたいなもの」
「恋愛の初期ってなんだよ……!」
テーブルの小さな香油瓶を指で弾くと、チン、と乾いた音が研究室に響いた。
「まぁほんとの理由はね、単純に“君と混ぜてみたい”って思ったから、なんだけど」
(こいつ……やっぱ変人だ)
でも、ローズマリー先輩の件は見過ごせない。
俺はしぶしぶ頷いた。
「わかった。……ただし、変なことすんなよ」
「どこからが“変”か、定義してくれる?」
「うわ、やっぱダメだこいつ」
ジンジャーはふっと笑って装置のスイッチを入れた。
天井から薄いヴェールみたいな香気フィルターが降り、空気が密閉される。音が遠のく。
「香りの構造は恋愛に似てる。
理論で解いても、最後は“混ざって崩れる”。――そこが面白い。
さて、ここから先は記録に残らない。嗅覚反応は実験に必要だけど、ログは僕の記憶にだけ留めておく」
「おいおい……それがいちばん怖ぇんだけど……」
彼がすっと近づく。
指先に香油を一滴。俺の首筋にやさしく塗り込む。
香りは思ったより柔らかくて、逆に油断を誘う温度だった。
「ミントは鋭さと清涼を両立してる。
でもこうして温度を乗せると、途端に脆くなる。……君の香り、なかなか良い素材だね」
「いや待て、なんの素材だよ!?」
ジンジャーは満足そうに目を細め、今度は俺の指先に自分の香油を垂らす。
「そのまま、僕の胸元に塗って。対称位置。――香りは、混ぜてからが本番だから」
じり、と距離が詰まる。
空気が重たく、甘くなる。
指を滑らせた瞬間、彼の体温がわずかに上がった気がした。目が合う。猫みたいな笑み。
「顔、赤いよ。スペアくん。やっぱり、こういうの初めて?」
「そっちが変な演出入れてくるからだろ!」
「僕は観察してるだけ。――君が、どう変化するか」
香りが高まるにつれて、視界の端がわずかに揺れる。
ジンジャーの指が首筋から顎へ、顎から鎖骨へ、慎重に撫でる。
香りと体温の波で、呼吸のリズムが乱れていく。
「……今、香りが跳ねた。緊張したでしょ?」
「……してねぇ……!」
「ふふ。嘘は、香りでバレるんだよ?」
見透かされている――その悔しさごと、香りに包まれていく。
身体の芯まで染み込むような、静かな侵食。
「ミントって、意外と……従順だね」
耳元の囁きに、背筋がゾクリと震えた。
香気が濃くなり、俺たちの間にだけ成立する“隔離された空間”が完成していく。
やがてジンジャーは香油を瓶に戻し、いつもの調子で言った。
「さて――これで“仮結び”は完了。
スペアくん。今の香り、忘れないで。次は、もっと濃く混ぜるから」
あまりに自然に言われて、反論が喉でほどける。
(……この人、絶対信用できねぇ)
それでも――さっき混ざった香りだけは、息をするたび蘇る。
理性の隙間に、スパイスの熱が小さく灯りつづける。
(危険だ。それでも、どこか惹かれてしまうのは……なぜだ)
フィルターが上がり、世界の音が戻る。
胸の奥では、ミントとジンジャーの香りが、まだ静かに溶け合っていた。




