6-3
夜の香奏院が、警鐘の音で震えた。
塔の上の調香塔が赤く明滅を繰り返す。
それは“香気異常”――すなわち、穢香の暴走を意味していた。
「発生源は……上層区、調香師様の研究棟!」
ティーツリーの報告に、異香班の面々が一斉に顔を上げる。
「研究棟? あそこは厳重な香陣で守られてるはずだろ」
ブラックペッパーが眉をひそめる。
「その結界ごと破壊された。
異世界の香りを含んだ穢香が、内部に侵入したらしい」
空気が一瞬、張り詰めた。
スペアは息を呑む。
――異世界の香り。
それは、あの排気ガスの臭気。自分の記憶が呼び寄せるものだった。
「誰が暴走してる?」
ティーツリーが言葉を詰まらせ、代わりにペッパーが答えた。
「……ローズマリー先輩だ」
重たい沈黙が落ちた。
香奏院随一の理論派にして、調香師様の右腕。
誰よりも冷静だった男が暴走するなど――誰も信じられなかった。
「行くぞ。全班、上層区へ!」
ペッパーの号令で、異香班が一斉に駆け出す。
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研究棟の扉を開けた瞬間、風が爆ぜた。
白い室内は、もはや嵐と化していた。
ローズマリー特有のハーブと金属を溶かしたような香気が、
黒い穢香と混ざり合い、暴風のように吹き荒れている。
「結界が……崩壊してる!」
パチュリの声に、ペッパーが防香陣を展開する。
「先輩! 俺たちです! 聞こえますか!」
ティーツリーが叫ぶが、返事はない。
代わりに、靄の奥から低い声が響いた。
「……邪魔を、するな」
それは確かにローズマリーの声だった。
だが理性の欠片もない。
香気が歪み、思考が断たれている。
「まるで……人格が変わってる」
スペアの呟きに、ペッパーが低く応える。
「穢香が、思考層まで侵食してるんだ」
ローズマリーが片手を上げる。
鋭い香気の刃が空を裂き、ペッパーの防香陣にぶつかる。
火花のように香が弾けた。
「……ちっ、先輩とはやりたくねぇんだがな」
ペッパーの声に、焦りと敬意が滲む。
「ティーツリー、パチュリ! 前衛展開!」
号令と同時に、光のような香気が奔る。
だが、暴走する理論香に押し負けそうになる。
スペアは前へ出た。
深く息を吸い込み、両手を掲げる。
「――蒸留結界!」
白い蒸気が一気に広がった。
暴れる香りを包み込み、各々の香気を調和させる。
空気がわずかに穏やかさを取り戻す。
「スペアの香りが……俺たちを繋げてる!」
ティーツリーの声に、ペッパーが頷く。
「この隙に行く! 防香陣、最大出力!」
胡椒の熱が一気に広がり、穢香の暴風を押し返した。
「ローズマリー先輩!」
スペアの声が響く。
蒸気の中でまっすぐ彼の前に立つ。
「先輩は――理論で香りを導く人でしょ。
穢香ごときに負ける理性じゃないはずだ!」
黒い香の中で、ローズマリーの瞳がかすかに揺れた。
その瞬間、スペアの香気が彼に触れる。
「……君の香り……目が覚めるほどにシャープだな。
だが……悪くない」
ミントとローズマリーが混ざり合う。
光が交錯し、穢香の影を完全に封じ込めた。
「封じ込め完了。ティーツリー、鎮静香を!」
「了解――!」
ティーツリーが両手を掲げ、詠唱を紡ぐ。
澄んだ風の香りが清流のように駆け抜け、
黒い影をやわらかく削ぎ落としていく。
次の瞬間――。
影は霧のように溶け、静寂だけが残った。
「……鎮静、完了」
ティーツリーが息を吐く。
「……落ち着いたか」
ペッパーが言い、ローズマリーがゆっくり膝をついた。
「……助かったよ。まさか俺が暴走するとはな」
声は低く、だがもう穏やかだった。
「穢香は理屈では止められない。
……次は、きちんとデータとして残しておこう」
「先輩……」
スペアが呼ぶと、ローズマリーは微笑んだ。
「ずいぶん成長したな。――ありがとう、スペアミント」
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夜が明けたあと。
訓練室で、スペアはひとり結界の修練を続けていた。
白い蒸気が呼吸に合わせて広がり、
昼間の戦いの余韻が胸に残る。
(……ローズマリー先輩でさえ、ああなるんだ。
次は誰が暴走してもおかしくない。
その前に、俺が――守らなきゃ)
香りを整え、蒸気の輪郭を確かめる。
防香結界の層を少しずつ重ねていく。
――その背後から、胡椒の香り。
「……また夜までやってるのか」
振り返ると、ペッパーが壁にもたれていた。
腕を組み、視線だけをこちらに向けている。
「……覗くなよ」
「見張ってるだけだ。暴走でもされたら困る」
「心配してくれてんだろ?」
「……ふん。認めたらお前は調子に乗る」
「もう手遅れかも」
スペアの笑みに、ペッパーは小さく息をついた。
その表情の奥には、確かな安堵があった。
胡椒とミント――異なる香りが、
静かに、温かく、夜の訓練室で混ざり合っていく。
(俺は――この世界の香りを、必ず護る)
その決意を胸に、スペアは新たな香陣を描き続けた。




