6-1 異世界の残り香
数日後の放課後。
レモンの療養室――同室のグレープフルーツの部屋には、
柔らかな陽光と柑橘の香りが満ちていた。
「よう、レモン。調子はどうだ?」
オレンが軽く手を上げて笑う。
レモンはまだ顔色が少し悪いが、無理に明るく返した。
「兄貴……心配かけてごめん。でも、もうだいぶマシになってきたよ」
「そっか。よかった。な? スペア」
俺――スペアも笑って頷いた。
ベッド脇のアロマランプから漂うグレープフルーツの香りが、
事件の痕を覆うようにやわらかく広がっている。
あの穢香の夜が嘘みたいに、今は穏やかだった。
――そのとき、扉がノックされた。
「……入るぞ」
低い声。
黒いコートの裾を翻して現れたのは、ブラックペッパー。
その背後に、なぜかジンジャーの姿もあった。
「ペッパー? それにジンジャーまで? 珍しい組み合わせだな」
オレンが眉を上げる。
「どうしたの? ……もしかして、レモンのお見舞い?」
俺が尋ねると、ペッパーはわずかに視線を逸らして答えた。
「いや……俺はスペアに用があって探していた」
「スペアに? なら俺も聞く。同室として当然だな」
オレンの声がぴしりと割り込む。
「……まぁ、いい」
ペッパーは小さく息を吐き、
いつもの冷静な表情を取り戻した。
「ジンジャーの調査で分かったことがある。
最近発生している穢香――どうも従来のものと質が違うらしい」
空気がわずかに張り詰めた。
俺は無意識に背筋を伸ばす。
「違うって……どう違うんだ?」
オレンが問うと、ジンジャーが軽く手を挙げて答える。
「匂いの層にね、“この世界の香り”じゃない要素が混じっていた。
排気ガス、金属、樹脂……そんなの、僕たちの世界には存在しない臭気だ」
「……排気ガス?」
心臓が、一瞬止まった。
あの鼻に残る匂いを、俺は忘れたことがなかった。
――現実の、東京の街角の匂い。
「まるで、おとぎ話みたいに異世界の空気が入り込んでいるような……そんな感じだね」
ジンジャーはいつもの調子で言う。
「なら、なんで早く言わなかったんだ」
ペッパーが眉を寄せて詰め寄る。
「話す機会がなかったから」
「機会がなかったってお前……!」
ペッパーの声がわずかに荒れる。
そのやり取りを見ながら、俺の胸の奥では別の音が鳴っていた。
(……“異世界の香り”なんて、俺以外に出せるはずがない)
心臓の奥がぎゅっと軋む。
この世界に来てからずっと、胸のどこかに残っていた違和感。
あれは、たぶん――このことだった。
ペッパーの声が低く響く。
「異世界の香りが混ざった穢香は、何かに“引き寄せられて”現れているらしい。
ジンジャーは心当たりがないと言うが……」
「異香班の全員にも聞いたけど、誰も分からなかったよ」
ジンジャーが肩をすくめる。
俺は拳を握りしめた。
(……間違いない。引き寄せてるのは俺だ)
(俺の中の“一葵”の記憶――現実の匂いが、
穢香を呼び寄せてるんじゃ……?)
喉が乾いた。
でも、このまま黙ってたら、また誰かが傷つく。
「……ペッパー。みんなに話がある」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「俺は……この世界の人間じゃない。
“スペアミント”って名前も、本当の俺じゃない」
レモンとグレープフルーツが息を呑み、
オレンは言葉を失ったように俺を見た。
「……どういう意味だ?」
「俺の本当の名前は――久城 一葵。
この世界を“ゲーム”として知っていた、別の世界の人間なんだ」
沈黙。
香りが止まり、空気が真空のように静まった。
「この世界に来てから、俺の中に“現実の匂い”が残ってた。
それが穢香を引き寄せてるんだと思う。
俺のせいで……みんなを危険に晒してる」
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。
それでも怖かった。拒絶されるのが。
オレンが目を伏せ、そして静かに息を吐く。
「……バカだな。なんで今まで黙ってたんだよ」
「信じてもらえると思わなかったから」
「信じるに決まってんだろ。
……俺たちが、どれだけお前を見てきたと思ってんだ」
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
レモンとグレープフルーツもうなずく。
そして――ペッパーが静かに口を開いた。
「なるほど……“異世界の香り”とはそういうことか。
なら――その香りを制御できるのも、お前だけだな」
ペッパーの瞳が、まっすぐ俺を射抜いた。
怒りでも戸惑いでもなく、ただ確信に満ちた眼差し。
「穢香の正体が見えた以上、もう逃げる必要はない。
お前の香りがこの世界を壊すなら――
同時に、それを救う香りにもできるはずだ」
その言葉に、胸の奥が不思議と温かくなった。
オレンが苦笑する。
「……相変わらず、説得力あるんだかないんだか分かんねぇな」
「だが、希望は見えた」
ペッパーの声が、静かに香陣の空気を震わせた。
窓の外で風が吹く。
ミントと胡椒、そして柑橘が混ざり合い、
新しい香りが生まれようとしていた。
(俺の存在が“異物”でもいい。
この香りが、みんなの未来を繋げるなら――)
俺はまっすぐ前を見据えた。
もう、迷いはなかった。




