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放課後の訓練室。
夕陽が窓越しに差し込み、香陣の輪を淡く染めていた。
静まり返った空間の中で、ミントと胡椒の香りが重なり合い、
まるで恋の余韻のように空気を満たしている。
「……今日も、また混ざっちまったな」
思わず笑みが漏れると、
ペッパーは額に手を当てて、ゆっくり息を整えた。
「混ざったんじゃない。……お前の香りが、俺の境界を超えてきただけだ」
「それを混ざったって言うんだよ」
「……そうかもしれんな」
微かな笑い。
訓練というより、もうこれは“距離ゼロ”の儀式みたいだ。
互いの呼吸が重なり、心音まで混ざるほど近い。
胡椒の熱とミントの涼が絡み合って、
ひとつの“香水結び”を生み出していた。
その静寂を――不意に破る声があった。
「ほぉ……なるほど。これが噂の“禁香”か」
俺とペッパーは同時に振り向いた。
そこに立っていたのは、異香班の変人・ジンジャー。
白衣を片腕だけにかけ、首には試験管。
眠たげな目のまま、漂う香りの残滓を愉しむように眺めている。
「異香班と献上側の香水結び――
ブラックペッパーとスペアミント。
防香と調香が共鳴する香水なんて、そうそう見られないよ」
「ジ、ジンジャー!? いつからいた!?」
「最初からではないけど……ちょうどいいところだったみたいだね」
慌てて立ち上がる俺をよそに、
ペッパーは眉を寄せて、わずかに頬を赤くしていた。
でもジンジャーは、そんな空気を楽しむように笑っている。
「安心して。怒ったりはしないよ。
むしろ――僕も体験してみたくなっただけさ」
「……は?」
空気が一瞬で止まった。
ジンジャーはゆるい笑みを浮かべたまま、俺に一歩近づいてくる。
「調香師様のためなら、いいだろ? ブラックペッパー」
その名が出た瞬間、ペッパーの表情が固まった。
“調香師様”を盾にされたら、拒む理由を失う。
俺も息を呑んで、彼の手元を見つめる。
「調香師様はまだ知らない香水を探している。
君となら――“ジンジャーミント”という新しい香りを生み出せる。
どうだい? 僕と、試してみない?」
ジンジャーの指先が、そっと俺の手に触れた。
その瞬間――胡椒の熱が弾ける。
ペッパーの手が素早くその間に割り込み、
俺を自分の背後へと引き寄せた。
「悪いが、スペアは渡せない」
低く響く声。
胡椒の香気が防壁のように立ち上がり、
ジンジャーの指を押し返した。
「おや、反応が早い。まるで恋人みたいだね、ペッパー」
「違う。……だが、これ以上は近づかせない」
その真剣な声音が胸の奥を熱くする。
息を呑む俺の前で、ジンジャーは目を細め――にやりと笑った。
「へぇ……感情が混ざった香りって、こうなるのか。
君がここまで独占欲を出すなんて、面白いな、ペッパー」
「遊ぶな、ジンジャー」
「遊びじゃないさ。ただ……ますます興味が湧いた。
スペアミント――君の香りは、どこまで広がるんだろうね」
そう言い残し、ジンジャーは飄々と背を向けた。
香陣を抜ける瞬間、ふっと笑みだけを残していく。
静寂。
訓練室に残されたのは、俺とペッパーの鼓動だけだった。
「……ペッパー。お前、顔赤いぞ」
「お前のせいだ。……まったく、油断も隙もない」
ため息混じりにそう言って、
ペッパーはそっと俺の頭に手を置いた。
胡椒の香りが、どこまでも熱くて、優しかった。
(……ジンジャー。あいつ、きっとまた何か仕掛けてくる)
(でも――)
ペッパーの手の温もりに包まれながら、
胸の奥で小さく息を吸う。
(――今だけは、この香りに守られていたい)
夕陽が沈み、訓練室を淡く染めていく。
胡椒の熱とミントの風が溶け合い、
“禁香”の余韻だけが、静かに残っていた。




