5-2
夕方の香奏院。
薄いオレンジ色の光が廊下に差し込み、調香瓶たちの影をきらりと照らしていた。
異香班の研究室には、まだ誰もいない。
それを確かめてから、俺はそっと扉を閉めた。
(……穢香を倒すには、まず相手を知ることだよな)
思いついたら動かずにいられない。
ペッパーには止められるに決まってる。だから、こっそり。
机の上には、前回の任務で回収した小瓶。
黒い香気の残骸が底に沈み、ときおりかすかに泡を立てている。
「……穢香の正体。もしかしたら、香りそのものが壊れた結果なんじゃ――」
「へぇ。やっと気づいた?」
不意に、後ろから声。
振り返ると、窓辺でカップラーメンをすすってる男がいた。
「……お前、いつの間に」
「ずっといたけど? 授業サボってるだけ」
淡いオレンジ色の髪をひとまとめに結び、
制服の上着を腰に巻いたままのゆるい姿勢。
異香班きっての変人――ジンジャー。
「……仕事しろよ、天才サボり魔」
「してるよ。サボるのも仕事のうち。脳みそ休める時間、大事だろ?」
「屁理屈だろ、それ」
そう言いつつも、彼の机には調香道具と分析香陣が広がっていた。
見た目はやる気ゼロなのに、手だけはずっと動いている。
たぶん、これが“天才”ってやつなんだろう。
「で? 穢香の残骸、調べたいんだっけ?」
「っ、なんで分かるんだよ」
「まんま顔に出てるから。悩んでる時のミントくんはすぐ分かる」
くすりと笑って、ジンジャーは小瓶を指先でつまんだ。
香陣の中央に置くと、淡い光が立ち上る。
「ふむ……これは完全に“香りの死骸”だね」
「香りの……死骸?」
「うん。もともとは精油だった。
でも、長い時間をかけて、香気の核が壊れて、形を失った。
残ったのは、香りの名残だけ。
――それが穢香の正体だと思う」
ジンジャーの声は軽いのに、その内容は重かった。
俺は、目の前の黒い気泡を見つめる。
確かに……どこか懐かしい、かすかな花の香りが混じっている。
「……じゃあ、穢香も、もとは“誰か”だったのか?」
「そう。
精油同士が結びを誤って、壊れたか、拒まれたか。
“混ざれなかった香りたち”の成れの果て。
たぶん、痛かったろうね」
ジンジャーの声が少しだけ静かになる。
その横顔に、いつもの気だるさはなかった。
「……壊れた香りを、また整えることはできるのか?」
「理論上はね。
でも、普通の調香じゃ無理だよ。
壊れた香りは他の香りを拒む。混ざろうとすると、相手まで壊す」
「……」
「けど、君は“混ざっても壊れない”んだろ?」
ジンジャーが笑う。
軽口みたいなのに、その言葉には確信があった。
「スペアミント。
君の香りは混ざることを恐れない。
それ、ちょっと……怖いくらいの才能だよ」
その瞬間、瓶の中の黒が、ふっと淡い光を帯びた。
まるで、眠っていた誰かが一瞬だけ目を開けたみたいに。
「……見ての通り、穢香にもまだ名残がある。
たぶん、どこかで助けを求めてる」
「……助けを、か」
「うん。倒すだけじゃなく、救うって発想、君らしいね」
ジンジャーは立ち上がり、伸びをしてから、飄々と扉へ向かった。
「報告は任せた。僕は寝る。サボりも、研究のうちだから」
「お前ほんと、すげぇな……」
呆れながらも、俺は小瓶を手に取った。
黒い香気の奥に、ほんのりと花の香りが残っている。
(混ざれずに、壊れてしまった香り……
だったら、俺が混ざって、整えてやるよ)
ミントの香りが、そっと揺れた。
それはまるで、決意を確かめるように。




