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香奏院・異香班訓練室。
外の喧騒が嘘みたいに静かで、
香陣の光だけが、ゆるやかに脈を打っていた。
「……おい、ほんとに訓練なのか?」
俺は引きずられてきたまま、ため息混じりに言った。
ペッパーは無言で香陣の中心に立ち、手で“こっちに来い”と合図する。
「文句は後にしろ。香気の乱れを整えるのが先だ」
「いや、整えるって言う割に、さっきから目が怖ぇんだけど」
ペッパーは返事をしない。
ただ、ゆっくり歩み寄ってくる。
足音も、香りも、静かに俺を包み込んだ。
「……今日の教室、騒がしかったな」
「え? ああ……まあ、ちょっとな」
「“ちょっと”か?」
ペッパーの声が低く落ちる。
「お前の名前、どこ行っても聞こえてたぞ。
“異香班と香水結びした精油”だとか、“奇跡のブレンド”だとか」
「いや、それは……オレンが広めたんだよ!」
「そうか。
――だが、あいつだけじゃない。
みんな、お前に触れようとしていた」
「……触れようって、言い方やめろよ」
ペッパーの眉がわずかに動く。
胡椒の香りが、空気を締めつけた。
「異香班と香水結びできた精油なんて、前例がない。
お前が特別なのは分かっている。
……だが、“特別”を理由に誰とでも混ざるな」
「……なにそれ。まるで嫉妬してるみたいな言い方だな」
「してる」
あまりにもあっさりと言われて、息が詰まる。
「……今の、冗談だよな?」
「本気だ。
さっきの教室で、誰かの香りがまとわりついたお前を見たとき……
喉が焼けるように熱くなった」
ペッパーが一歩近づく。
膝が触れ合いそうな距離。
息が、互いの唇の間で溶けた。
「この距離で、俺の香りだけを感じろ」
「……訓練って言いながら、完全に恋人の距離だろ」
「恋人……?」
ペッパーのまつ毛が震える。
その言葉を反芻するように、ゆっくりと目を細めた。
「……悪くない距離だな」
「おい、それ認めんなよ!」
思わず声を上げると、ペッパーの手が俺の頬を包んだ。
その手つきは優しく、でも拒めないほどに確かだった。
「お前の香りが、俺の境界を壊す。
触れるたびに、冷静でいられなくなる」
「……お前がこんなこと言うなんて、想定外すぎる」
「俺もだ」
胡椒の熱が、呼吸の間に満ちていく。
香陣の光がかすかに揺れ、空気が震えた。
「……混ざりたくないのに、混ざっていく。
それが一番厄介なんだ」
「……でもさ」
俺は小さく笑う。
「俺は、嫌じゃないけどな」
ペッパーの瞳が見開かれる。
その一瞬で、防香陣がふっと光を放った。
胡椒とミント――ふたつの香りが、ひとつに旋回していく。
「……訓練は終わりだ」
ペッパーはそっぽを向いて言った。
「ほんとかよ。途中から完全に訓練じゃなかったけど」
「気のせいだ」
そう言い残し、ペッパーは背を向ける。
けれど、歩き去る彼の背中からはまだ、熱い胡椒の香りが漂っていた。
(……やっぱりこの人、“訓練”を口実にしてるよな)
胸の奥でミントがふわりと広がる。
香りの余韻だけが、恋人未満の距離で揺れていた。




