1-2
翌朝。
オレンに案内されて辿り着いたのは、まるで神殿と温室を掛け合わせたような場所だった。
天井の高い空間に白い蒸気がゆらめき、壁一面には金の蔦と花を象った装飾が施されている。
足元の大理石は、朝の光を柔らかく反射していた。
湯の表面はかすかに光を帯び、細かい泡がゆっくりと弾けている。
水音と香りの粒子が混ざり合って、呼吸をするたびに胸の奥が温かくなる。
それでも――どこか現実味がなくて、俺は小さく息を呑んだ。
「ここが……抽出場?」
「そうだ。」
低く、よく通る声が響く。
振り向くと、そこに立っていたのは香奏院随一の理論派――ローズマリー先輩。
深い緑の髪と長い前髪の奥から覗く瞳は、驚くほど冷静で、研ぎ澄まされていた。
蒸気の向こうにいるのに、視線がまっすぐ届いてくるような気がする。
「精油は、香りの成分を体内に蓄えている。
その成分をどう抽出し、どう保管するかは種別によって異なる。」
淡々とした口調。
けれど、その一言一言に揺るぎのない信念が宿っていた。
彼が指先で湯気を裂くたび、空気の流れが変わるのが分かる。
まるで香りそのものを支配しているようだった。
「お前――スペアは“水蒸気蒸留法”型だ。
湯に身を沈めるだけで、香りの成分が蒸気と共に気化し、分離されていく。
香奏院の浴槽には回収装置が組み込まれている。入浴するだけで、自動的に“アロマ水”が生成される仕組みだ。」
「……風呂に入るだけで自動抽出って、便利だけど……なんか羞恥プレイ感あるな」
「最初は誰でも戸惑う。だが献上は義務だ。怠れば香りが濁る。
濁った香りは“穢香”を呼ぶ。穢香とは、壊れた香りの残骸だ。
それが広がれば、世界そのものが蝕まれる。――献上は、己の香を守る戦いでもある。」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
ゲームの中で聞いた“穢香”という存在。
演出だと思っていたが、この世界では現実の脅威らしい。
ここでは“香り”が力であり、盾であり、誓いなのだ。
ローズマリーが湯を指さした。
湯気の間を縫うように金の光が走り、その仕草に、思わず息を呑む。
彼はまるで儀式の導師みたいだった。
「安心しろ。俺が監督する。初回の抽出が正しく完了するまで、ここで見届ける。」
「……いや、その“すぐ近く”ってどのくらいの距離ですかね……?」
「蒸気の流れを読むには、観察が必要だ。」
「距離ゼロで観察されるのは、ちょっと精神衛生上よろしくない気がするんですけど……」
冗談めかして言うと、ローズマリーはわずかに口角を上げた。
笑った……のか? いや、微妙だ。けれど、少なくとも俺の緊張を和らげようとしている気配はあった。
その一瞬だけ、彼の冷たい印象が少しだけ柔らかく見えた。
「さあ、始めよう。――スペアミント。
君自身の香りを、正しく抽出してみせろ。」
促されるまま、湯へ足を入れた。
瞬間、肌の表面を熱と清涼が同時に走り抜ける。
柑橘にも似た鋭い蒸気の中に、ミントの透明な冷たさが重なり合う。
肺の奥まで香りが満ちていくようで、息をするたびに世界が変わる感覚がした。
湯の表面が揺れ、淡い光の粒が立ち上る。
それが空気と混ざり、音もなく散っていく。
ほんの数秒のうちに、部屋の温度が少し上がった気がした。
「……悪くない。穏やかで、澄んだ香りだ。」
ローズマリーの低い声が静かに落ちる。
それは褒め言葉なのに、どこか祈りのように響いた。
「お前の基調香は“調和”そのものだ。
互いの香りを壊さず、むしろ整える。――珍しい性質だな。」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
香りで評価される世界なんて馬鹿げていると思っていた。
けれど、誰かが真剣な目で「いい香りだ」と言ってくれるのは、思っていたよりも心に沁みた。
蒸気が優しく揺れ、試験管のようなガラス容器に透明な滴が落ちていく。
ぽとん、と音を立てるたびに、小さな虹色の波紋が広がった。
ローズマリーが微笑を浮かべる。
ほんのわずか、香りと共に空気が柔らかくなった気がした。
「初回としては上出来だ。……スペア。」
「はい?」
「次は、“香水”を学ぶ番だ。――覚悟しておけ。」
その一言が、心臓に冷たい風を吹き込む。
そして、頭の片隅で蘇るのは、現実世界のあの声――
──「香水結びのスチルはやばいからッ!! 見て、やばいからッッ!!」
まさかその“やばさ”を、体験することになるなんて。
俺は、まだ知らなかった。




