3-11
翌朝。
訓練室の空気は、昨日と同じはずなのに、どこか重かった。
ミントと胡椒――昨日混ざってしまった“禁香”の名残が、
まだこの部屋の奥に沈んでいるようで、息をするたび胸の奥がざわつく。
「……おはようございます」
声が少し掠れた。
ペッパーは机の書類を整えたまま、視線をこちらに向けない。
「昨日の件は、記録に残さない。
異香班として香気干渉の報告義務はあるが……今回は“訓練中の事故”とする」
「……事故、ね」
思わず苦笑が漏れる。
「まぁ、確かにあれは想定外だったけど……」
「いいか、スペア」
ペッパーの声が低くなる。
「昨日のことは、誰にも話すな。
異香班と献上側の香気が混ざったとなれば、問題になる」
「問題って……別に、悪い香りじゃなかったじゃん」
「香りの善し悪しではない。……規律の問題だ」
冷たく言い放った声の奥に、
焦りにも似た熱が微かに滲んでいた。
「俺は、異香班のリーダーだ。
感情に流されて香気を乱すわけにはいかない」
「……でも、流されてたよな、昨日」
その言葉に、ペッパーの肩がぴくりと揺れる。
「……お前は、ほんと無遠慮だな」
「悪かったな。俺、そういうとこあるから」
軽く笑って近づこうとした瞬間――
「来るな」
鋭い声が、空気を裂いた。
ペッパーの指先から黒胡椒の香気が立ち昇る。
それは壁のように彼の周囲を包み込み、
自分自身を守る結界のように震えていた。
「昨日のようなことは二度と起こさない。
異香班としての俺は……お前に触れるべきじゃない」
「……触れるべきじゃない、ね」
足を止めた瞬間、胸の奥の香りがきゅっと締めつけられる。
「なあ、ペッパー。
俺さ、別にお前の足引っ張るつもりとか、ないんだよ。
ただ――あの香り、すげぇ良かったと思ってるだけ」
「……良かった?」
「うん。あれは、誰かを守る香りじゃなくて、
“誰かと生きる”香りだった。……そう思った」
ペッパーの瞳が、ゆっくりこちらを向く。
冷静さと迷いが、薄い膜のように揺れていた。
「お前の言うことは、時々……本当に危険だ」
「危険って?」
「――俺の理性を壊す」
その一言が、胡椒の香りを震わせた。
ペッパーの手が、胸の前で握られた拳をゆっくり開く。
香気の壁がふっと溶け、代わりに甘い残香が漂う。
彼の中で、また混ざり始めていた。
「……やっぱり、隠せねぇな。
香りって、心の奥まで出るもんな」
俺の言葉に、ペッパーは目を細めた。
その瞳は苦しげで、それでもどこか穏やかだった。
「スペア。……お前がこのまま“献上側”にいられるとは限らない」
「え?」
「万能適応型の香気は、穢香にも通じる。
お前が今後、誰かと深く混ざれば――それだけ危険も増す」
「じゃあ……どうすればいい?」
「――俺が監視する」
「監視って……束縛激しい彼氏かよ」
その軽口に、ペッパーが一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、ほんの少し顔を背ける。
「……軽口を叩くな。これは任務だ」
「でも、顔が真っ赤だぞ」
「黙れ」
そのやり取りの間にも、
ミントと胡椒の香りが静かに絡み合う。
離れようとするたび、空気の奥でふわりと結び直されるようだった。
(……理性も規律も、香りには敵わないんだな)
そう思いながら笑う。
けれど胸の奥で確かに――
“禁忌の甘さ”が、もう止まらなくなっていた。
ペッパーの黒い香気が、
ミントの清涼を抱きしめるように揺れる。
その香りは、罪のように美しかった。




