3-9
夜の訓練室。
照明は落とされ、窓の外には月の光が静かに浮かんでいた。
香陣の輪が淡く光り、空気の底に胡椒の香りがゆっくりと広がっている。
「今日の訓練、俺でいいの? 他の精油の方が……」
扉を閉めながら、いつもの調子で声をかける。
「……必要ない。お前はもう基礎はできている」
ブラックペッパーは短く答えた。
その声には、わずかに硬さが混じっている。
「基礎って?」
「防香の基礎に決まっている。……最後に確認だけさせてもらおうか」
そう言って彼は、香陣の中心に立った。
指先が静かに動くたび、黒胡椒の香気が層を描くように立ちのぼる。
空気がぴたりと張り詰め、
その香りはまるで“触れることを拒む壁”のように、はっきりと輪郭を持っていた。
「……これが“防香”の完成形だ」
「混ざらない香り、だっけ?」
「そうだ。異香班は他者の香気に触れずに秩序を保つ。
誰とも混ざらないこと――それが守る者の条件だ」
ペッパーの言葉は理路整然としていた。
けれど、その奥には、微かに苦味を含んだような響きがあった。
「……でもさ」
俺は少し笑って、結界の縁まで歩み寄る。
「混ざらないって、なんか寂しくね?」
ペッパーの睫毛がわずかに動いた。
けれど返事はない。
ただ静かに、香りの壁が淡く震えている。
「俺ら献上側は、香水を作るたびに触れ合うんだよ。
距離近いのが普通なんだ。
だって、香りって“触れて”やっと深みが出るもんだからさ」
「……その距離感は、異香班には要らない」
「でも、お前には要るだろ」
思わず、口が勝手に動いていた。
その瞬間、胡椒の香りがわずかに乱れる。
「お前の香り、確かに強いけど……優しいじゃん。
俺、前に触れられた時も思った。
あったかくて、落ち着く香りだった」
沈黙。
言葉が空気に溶ける間、ペッパーは動かなかった。
それでも、確かに呼吸が一つ、浅くなるのがわかった。
「……スペア」
「ん?」
「お前……無意識にそういうことを言うのは、やめろ」
「なんで?」
「……心臓に悪い」
その言葉は驚くほど小さく、
それでいて真っ直ぐに届いた。
ペッパーがゆっくりとこちらを向く。
月明かりが彼の横顔を照らし、睫毛の影がわずかに震えた。
「俺は、混ざらないようにしてきた。
誰とも。どんな香りとも。……壊さないように。
だが――お前は、それを簡単に越えてくる」
「越えていいんだよ。
だって、ただ“知ってほしい”だけだから」
言葉の意味を理解するより早く、
ペッパーの手が動いた。
指先が、そっと俺の頬に触れる。
ピリッとした胡椒の香りが、柔らかく弾けた。
熱いのに、痛くない。
体の奥が、ふわりと浮く。
「……壊れない」
ペッパーの声が、かすかに震えた。
「な?」
俺が微笑むと、ペッパーは息を詰めて、わずかに目を逸らした。
「……お前の距離感、危険すぎる」
「献上側だからな。慣れてるんだよ、こういうの」
「……そうか」
それ以上何も言わず、ペッパーは静かに手を離した。
けれど、香りの境界線はもう消えていた。
胡椒とミント。
スパイスの熱と清涼が混ざり合い、
部屋の空気がゆっくりと甘く変わっていく。
(……混ざらない、なんて無理だろ)
ペッパーは目を閉じたまま、
誰にも聞こえない声で呟いた。
「――お前の香り、もう忘れられない」
その言葉を確かに聞いた気がして、
俺は何も言わず、ただ静かに笑った。
夜の静寂の中、
ミントと胡椒の香りがそっと一つに溶けていった。




