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「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
形式だけ整えて頭を下げると、ブラックペッパーは軽く頷いた。
訓練室の空気はいつも通り張りつめていて、
スパイスの香りが、少し熱を帯びながら鼻の奥をくすぐる。
床の香陣は前回よりも深い色をしていて、
淡い光が静かに脈打つたび、胸の鼓動まで同期しているような気がした。
「……今日は、“防香”の訓練をする」
背を向けたまま、ペッパーが静かに言った。
「自分の香りを一定範囲で維持する。
外の香りを遮断しながら、内部の香りだけを循環させる。
――異香班の基礎だ」
「へぇ、難しそうだな」
瓶の栓が抜かれ、黒胡椒の刺激が一気に広がる。
その香りは乾いた熱を帯びていて、肌の奥にまで入り込んでくる。
思わず鼻をすする。
「……強っ。お前の香り、いつもスパイス効きすぎだろ」
「異香班は、他人に触れることが少ない。
だから、自分の香気だけで“境界”を保つ必要がある」
「触れない、ね……献上側とは正反対だな。
俺ら、香水作るときなんて毎回ベタベタ触ってんのに」
「それが異香班にはない。
香りを守る者は、混ざることを恐れる。
――香りを壊すからだ」
その言葉に、少しだけ胸が重くなった。
「……壊したこと、あるのか」
ペッパーは視線を落とし、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。
「昔、一度だけ。
俺の香気が強すぎて、同僚の香りを“焼いた”。」
「……焼く、って?」
「香りを消す、という意味だ。
二度と戻らなかった。だから、それ以来――
俺は誰にも触れない」
淡々とした声なのに、
その奥には、痛いほどの罪悪感が滲んでいた。
鋭い香りの隙間に、ほのかな苦味が混じる。
「……そっか」
しばらく黙って、それから俺は一歩だけ近づいた。
距離にして、ほんの半歩。けれど、香りが変わるほどの近さだった。
「でもさ、俺は焼けてねぇよ」
ペッパーの瞳がわずかに揺れた。
その反応を見て、俺は続けた。
「この前、手、握られただろ?
あれ、あったかかったし、全然壊れてなかった。
むしろ――少し落ち着いたぐらいだ」
「……あれは、たまたまだ」
「たまたまでもいいじゃん。
“触れたら壊す”って思ってるなら、俺で練習すりゃいい。
少しずつ慣れていけば、怖くなくなるかもしれないし」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
たぶん俺、こいつの香りが怖くなかった。
それだけのことで、言葉にしたらすごく簡単だった。
「お前……ほんとに無防備だな」
「よく言われる」
少し笑うと、ペッパーが視線を逸らした。
耳の先が、かすかに赤くなっている。
「……“戦わない香り”のくせに、距離だけはやたら詰める」
「俺は“繋ぐ香り”だからな」
その言葉に、ペッパーの口角がほんのわずかに上がった。
スパイスの熱が少しだけ柔らかくなる。
「……まったく。次までに防香を体得してこい」
「おう、師匠」
「やめろ。その呼び方はくすぐったい」
そう言いながら背を向けるペッパーの黒いコートが、
空気を撫でるように揺れた。
残った香りは、少しだけ穏やかで。
(触れられない香り、か……)
でも、確かに“近づけた”気がした。
「本日も、ありがとうございました」
形式的な挨拶を添えて頭を下げる。
ミントの香りが、そっとスパイスの中に溶けていった。
静かな蒸気がゆらりと立ちのぼり、
境界線のように淡く、あたたかく揺れていた。




