3-6
訓練棟の奥。
普段は異香班しか使わないという個室に、俺は足を踏み入れた。
床一面に香陣が描かれ、壁際にはびっしりと瓶と香料が並んでいる。
空気が少し重い。
ここが、今日から俺の“個人レッスン”の場所だった。
「……来たか、スペアミント」
すでに部屋の中央には、ブラックペッパーがいた。
薄暗い照明の下で、黒いコートの裾がゆるやかに揺れている。
その香りはいつも通り――鋭くて、まるで神経を研ぎ澄ませるようだった。
「おはようございます。えっと……今日から、よろしくお願いします」
「形式はいらん。まずは構えてみろ」
いきなりの指示に少し戸惑いつつ、香陣の中心へと立つ。
ペッパーが軽く指を鳴らした瞬間、空気の流れが変わった。
ぴりっと鼻を刺す刺激が走る。
「……っ、これ……?」
「穢香の残り香を極薄に再現したものだ。
お前の香りが、どこまで耐えられるか試してみる」
冷静な声。
けれど、その響きには妙な安定感があった。
まるで空間そのものを整えるみたいに、ペッパーの香りが場を支配していく。
(すげぇ……さすが異香班のリーダーだ)
「お前の香りは柔らかく広がる。
だがその分、他者の影響を受けやすい。
防御とは、ただ遮断することではない。
――混ざりながらも、自分の軸を失わないことだ」
ペッパーの声が、深く胸の奥に響いた。
その低音は静かなのに、不思議と鼓動を速めてくる。
「……試してみろ」
指先が軽く弾かれ、風の中に黒い靄が生まれた。
穢香の残り香。
それが近づいてくるのを感じ、俺は深く息を吸い、
体の中心からミントの香りを満たしていく。
「――“蒸留結界”」
白い蒸気が立ちのぼる。
悪臭がゆるやかに押し返され、代わりに清涼な風が空間を包んだ。
ぴんと張っていた空気が、少しだけ柔らかくなる。
「……なるほどな」
ペッパーの瞳が細くなった。
その奥に、わずかな満足の色が見えた気がする。
「いい判断だ。
香りで闘う者は、まず“濁らないこと”を覚える必要がある」
「……はい。ありがとうございます」
緊張の糸が少し緩む。
笑いかけると、彼はふいに視線を逸らした。
その横顔が、ほんのり赤く見えたのは気のせいだろうか。
ペッパーは無言で新しい香料瓶を手に取り、俺へと差し出す。
瓶の中では、透明な液体がわずかに揺れていた。
「次は“香気干渉”の訓練だ。
俺の香りを合わせてみろ。
混ざりすぎれば、お前が負ける。
保てば、相互防御になる」
「混ざり……って、どうやって……?」
「――手を出せ」
短く告げられ、反射的に手を差し出す。
その瞬間、ペッパーの指が俺の手首を掴んだ。
思っていたよりも、ずっと熱い。
「……っ……」
「動くな。香りを合わせる」
掌から伝わる熱に、息が浅くなる。
スパイスの香りが脈に沿って染み込んでくるようで、
空気が、音もなく変わっていった。
「……お前の香りは、本当に柔らかい。
吸い込むと、刃が丸くなるようだ」
ペッパーの声が少し低くなった。
その眉が、わずかにほどける。
ほんの一瞬だったけれど、確かに見えた。
(……やっぱり、この人、優しいんだ)
そう思った瞬間、黒い靄が完全に消えていた。
部屋の空気が澄み、香陣の光がゆっくりと落ち着いていく。
「今日はここまでだ」
ペッパーが手を離す。
指先がかすかに震えていた。
気づいたら、俺の方が先にその手を掴んでいた。
「なぁ、ブラックペッパー。ありがとな。マジで助かった」
その瞬間――彼の動きがぴたりと止まった。
肩がわずかに跳ね、あの冷静な彼が、まるで熱湯を浴びたみたいに固まる。
「え、どしたの?」
「……な、何でもない」
低く返された声は、いつもより掠れていた。
耳まで赤い。
(……え、照れてる? うそだろ……)
普段のクールさとのギャップがすごすぎて、
俺は思わず目を瞬かせた。
「お前……献上側ってのは、こんなふうに……普通に触れるのか」
「え? うん、まあ。香り結びとか、日常的にやるし」
「……そうか」
ペッパーは視線を逸らしたまま、小さく息を吐いた。
その吐息が、わずかにスパイスの香りを含んでいて――
それが妙に甘く感じたのは、きっと気のせいだ。
「次の訓練は三日後だ」
「はい!」
背を向けたペッパーの耳の先まで赤いままで、
なんだか俺の方が恥ずかしくなってきた。
(……あんな顔するんだ、この人)
訓練室を出たあと、
俺の香りが自然とこぼれた。
ミントの清涼と、ほんの少しの熱を帯びた夜気が混ざり合う。
静かで、少しだけ温かい夜だった。




