3-5
翌朝、香奏院は久しぶりに穏やかだった。
昨夜の穢香騒ぎが嘘みたいに、空気が澄んでいる。
でも俺だけは、心臓がまだ落ち着いていなかった。
「おい、スペアミント。
調香師様がお呼びだそうだ」
職員棟の前でローズマリーに呼び止められた瞬間、心臓が止まるかと思った。
(呼び出し!? 俺、なんかやらかしたか!?)
昨日の戦闘のことが頭をよぎる。
勝手に蒸気を出して場を安定させたのは、確かに規格外の行動だった。
やばい。これは減点イベントかもしれない。
案内された調香師室は、静謐そのものだった。
香料棚の奥、白い衣をまとった調香師様がこちらを見つめている。
「昨夜の穢香鎮静、誠に見事でございました」
その一言に、思わず固まる。
「えっ……叱られないんですか?」
「叱る理由などございません。むしろ、称賛すべきことでしょう。
“戦わずして香りを整えた”――それは、新たな献香術の形でございます」
まるで褒章イベントみたいな展開に、脳内でファンファーレが鳴った。
(え、これ褒められルート!? まさかの功績ポイントゲット!?)
「……しかし、力を扱うには学びが必要です」
調香師様の指先がゆっくりと動く。
そこから、胡椒のような鋭い香りが立ちのぼった。
「あなたには、“異香班”の指導を受けていただきます。
指導役は――ブラックペッパーです」
「は!?」
目を丸くした俺に、調香師様は静かに頷いた。
「彼は穢香の鎮静に長けております。
しかし同時に、“混ざらない香り”を持つ者でもあります。
あなたのような適応型とは正反対の存在。
互いを学び合うには、実に良い組み合わせでしょう」
(完全に裏ルート解放されたやつだ……!)
部屋を出るとき、心臓の鼓動が止まらない。
ブラックペッパーと“個人レッスン”。
その言葉の響きだけで、胃が痛くなりそうだった。
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夜。
寮に戻ると、オレンがベッドに腰かけて待っていた。
いつもより穏やかな笑顔で、俺を見上げてくる。
「お前、今日呼び出されてたな。
異香班の指導ってマジか?」
「……うん。ペッパーさんに習うことになった」
「へぇ。やるじゃん、“献上側”のくせに」
そう言って、オレンが軽く笑う。
その笑い方が妙に優しくて、逆に落ち着かない。
「……惚れ直したぜ」
「なっ――!?」
顔が一気に熱くなる。
オレンはにやにや笑いながら、ベッドに寝転んだ。
「だってよ、お前。戦えないとか言ってたくせに、
結果的に全員助けたんだろ? かっけーじゃん」
「いやいや、かっこよくないから!
ていうか惚れ直したとか、そういうセリフ普通に言うなよ!」
掛け布団を引き寄せて頭を抱える。
Wベッドの中、距離が近すぎて逃げ場がない。
「……結局、全ルート分岐解放しちまった……」
小さく呟く。
「は?」
「いや、もういい……姉ちゃんでいいから助けてくれ……!」
隣でオレンが吹き出した。
その笑い声が妙にあたたかくて、
なんだか悔しいのに、ちょっと救われた気もした。
(ほんとに……どんなルートでも、気が抜けねぇ……)
ベッドランプの明かりが落ちる。
柑橘とミントの香りが、夜の空気にゆっくりと溶けていった。




