3-4
その夜、香奏院の鐘が鳴った。
低く、胸の奥まで響く音。
けれど、どこか冷たい。
この音は知っている――
「穢香発生」の警鐘。
「……嘘、献上棟の方から……?」
隣で、ジャスミンが顔を上げた。
彼の香りが、ざわりと空気を震わせる。
次の瞬間、校舎の向こうで黒いもやがゆっくりと広がった。
香りの層を押しのけ、空気そのものが濁っていくのが見えた。
「全員、下がっていろ――異香班が出る」
低い声が響いた。
月光を背に、黒いコートの男が立っていた。
ブラックペッパー。
あのとき中庭で会った、“スパイスの人”だ。
その名を呼ぶ前に、彼の後ろから数人の影が現れた。
皆、重い香気を纏っていて、空気の密度が変わる。
まるでこの場所だけ、別の温度になったようだった。
(これが……異香班……)
喉の奥が乾く。
香りを“献上”する俺たちとは明らかに違う。
彼らは、香りそのものを“守る”側――。
だが、その理解を挟む間もなく。
天井の隙間から黒い靄が滴り落ちた。
じゅっ、と床が焼け焦げる音。
鼻を刺す悪臭。
それは香りとは呼べない、腐った鉄のような匂いだった。
体が勝手に後ずさる。
けれど、足はすぐに動かなくなった。
「穢香……本当に、出た……」
喉の奥から出た声は、かすれていた。
目の前の黒は、生き物のように蠢き、壁を這い、香気を喰っていく。
調香師の記憶を奪う“堕ちた残り香”。
そんな設定、ゲームの中にあっただろうか。
現実みたいな臭いに、思考が追いつかない。
「下がって、スペア!」
オレンが俺の前に立った。
手から弾けた光が、柑橘の匂いを放って闇を押し返す。
その一瞬の隙に、ゼラニウムが薔薇の香りでバリアを張った。
だが、すぐにひびが走る。
ラベンダーも支えに入るが、穢香の波は止まらない。
(戦えない……! 俺には、何もできない……!)
恐怖で喉が締まる。
香りが奪われ、世界の色まで褪せていく。
膝が震えた。
そのとき――頭の奥に、湯気が浮かんだ。
白い蒸気。
あのとき、湯船でアロマ水を抽出した時の記憶。
(……俺の香りは“熱と水分”に乗って広がるんだ)
(戦う力はなくても、“繋ぐ”ことなら――!)
胸に手を当て、深く息を吸う。
ミントの清涼が体の奥から立ち上がった。
「――“蒸留結界”!」
声が響いた瞬間、白い蒸気が足元から立ち上った。
柔らかく、それでいて確かな熱を帯びた湯気。
それが、オレンの柑橘、ジャスミンの花、ラベンダーの草、ゼラニウムの薔薇――
それぞれの香りを包み込み、やさしく繋いでいく。
空気が震えた。
混ざりすぎず、けれど確かに重なっていく。
濁っていた香りが、ゆっくりと整っていった。
「これは……!」
ジャスミンの瞳が光を帯びる。
「香りが――安定してる。穢香の干渉が弱まってる!」
「スペアの香りだ!」
オレンの声が響いた。
「俺たちの香りを“繋げて”、整えてくれてる!」
その声を合図に、ブラックペッパーが前へ出た。
指先がわずかに動く。
次の瞬間、胡椒の香りが弾けた。
熱い風が走り、闇を焼き切る。
黒い靄が、まるで霧のように消えていった。
残ったのは、焦げた匂いと――ミントの清涼。
呼吸が戻る。
膝が笑う。
それでも、もう怖くはなかった。
「……終わったな」
低い声がして顔を上げると、
ブラックペッパーがこちらを見ていた。
冷たい瞳に、ほんの少しだけ熱が宿っていた。
「お前、戦闘用の香りじゃないのに、全員の香気を調律したな」
「俺……怖くて、動けなかった。
でも、みんなの香りが乱れてて……
“繋げる”ことなら、できるかもって……」
声が震えていた。
けれど、ペッパーは責めなかった。
ただ小さく頷き、わずかに笑った。
「なるほど。“戦わない香り”か。
……異香班にも、そういう香りが必要かもしれないな」
「え……?」
「お前、面白い奴だな。
次に穢香が現れたとき――お前の香りで、皆を支えろ。
戦わずして護る。それも、立派な戦い方だ」
その言葉が、静かに胸に染みた。
隣でジャスミンが息をつき、
ゼラニウムが腕を組んで俺を見た。
「まったく、美しくない夜だったな。
……でも、お前の香りは悪くない」
「……ありがとう」
笑った。
その瞬間、みんなの香りがやわらかく混ざった。
ミント、花、柑橘、草、薔薇――
戦いのあととは思えないほど、優しい空気。
(俺は戦わない。けれど――みんなを“繋げる”。
それが、俺の戦い方なんだ)
夜空に、白い蒸気のような香りが立ちのぼった。
ミントの風が、静かに学園を包んでいく。




