穢香編 1-1 異世界と香水は突然に
夜の帳が香奏院を包み込む。
窓の外では風が枝葉を揺らし、月光が白いカーテン越しにゆらめいていた。
部屋の中には、柑橘の甘さと微かなミントの清涼が溶け合って漂っている。
穏やかで心地よい――はずなのに、俺の肩は緊張でこわばっていた。
ここは――香奏院。
“精油”と呼ばれる存在たちが、調香師に仕えるために香りを磨く学び舎。
そして俺――久城一葵は、よりによって誰とでも相性がいいとされる“スペアミント”として転移してしまった。
この世界では、香りこそがすべてだ。
精油たちは定期的に調香師へ香りを捧げる“献上”を行う。
その献上には二つの形がある。
一つは、自らの香りを抽出して作る“アロマ水”。
もう一つは、複数の精油が心を交えて生み出す特別な“香水”。
香りは力の象徴であり、祈りであり、絆の証。
調香師に認められるほど、精油の格も上がる。
つまり――この世界は、恋と忠誠が香りで可視化される世界なのだ。
……いや、要するに、姉が熱狂していた『Parfum*Etoile』の世界そのまま、ってことなんだけど。
そして今、俺はその世界の寮のベッドの上で、転生初日の夜を迎えている。
見知らぬ天井。白いシーツ。柑橘の香りに包まれた空気。
そのどれもが現実の部屋よりも甘く、濃い。
「なあ、スペア。眠れないの?」
穏やかな声が、静寂を破った。
隣のベッドから顔を覗かせたのは――同室の相手、オレンジ。
“爽やか兄貴系”を絵に描いたような男だ。
柔らかく崩れた寝癖が月明かりに照らされ、光の輪の中で揺れている。
ほんのりと甘い香りが漂ってきて、息をするだけで心拍数が上がる。
「……そりゃ眠れないだろ。
今日いきなり来て、香り出せとか言われて、しかも初日から同室って。普通じゃねぇよ」
「え、嫌だった?」
「嫌っていうか……普通、警戒するだろ。見知らぬ男と同室とか」
オレンは苦笑し、枕に頭を沈める。
その仕草までやたらと自然で、絵になる。
まるでこの空間が彼を中心に呼吸しているみたいだ。
「香奏院では、“香りの調和”が大事なんだ。
一緒に暮らして、寝起きを共にして、香りを馴染ませる。
それで初めて、良いアロマ水が抽出できるって言われてるんだよ」
「……その“アロマ水”って、結局なんなんだ?」
「精油が自分の香りを少しだけ抽出して、調香師に献上するものさ。
週に一度、それを届けるのが義務。
調香師に仕える身として、自分の香りを整え、絶やさないことが忠誠の証なんだ」
その説明を聞きながら、俺はシーツを握りしめた。
“香りを捧げる”なんて、言葉にすると妙に神聖っぽいけど……
要するに、俺たちは「香りを差し出す側」ってことだ。
乙女ゲーどころか、もはや儀式に近い。
「明日は初めての抽出だろ? ローズマリー先輩が立ち会ってくれるってさ」
「チュートリアルイベント的なやつか……」
「ん? 今なんて?」
「いや、なんでもない。……おやすみ」
軽く笑いながらごまかすと、オレンは目を閉じた。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
彼の呼吸とともに、柑橘の甘さが少しずつ広がっていく。
まるで、見えない手が心を撫でていくような感覚。
優しい香り。
けれど、どこか芯のある熱を秘めていた。
嗅覚だけじゃない。肌の奥まで届いてくるような――“生きた香り”。
(……これが、この世界の“普通”なのか)
意識が溶けていく中で、ぼんやりと思った。
あの日常の味気ない空気とはまるで違う。
ここでは呼吸するだけで、何かが混ざっていく気がする。
香りが世界を動かし、心を繋ぐ。
そんな馬鹿げた設定、現実では笑い飛ばしていたのに――
今はもう、その甘さの中から抜け出せない。
オレンの香りに包まれながら、まぶたがゆっくりと閉じていく。
柑橘の熱が胸の奥を満たし、
ミントの冷たさがその輪郭を優しく撫でた。
――この世界、どこをどう歩いても“甘すぎる”。




