3-1 穢香の兆し
香奏院の空気が、少しざわついていた。
香水献上イベントから一週間。
まだ教室のあちこちで、その話題がくすぶっている。
「誰かの香りが暴走したらしい」
「調香師様が結界を張って止めたんだって」
「異香班が出動して鎮静化したって、下級生が言ってた」
噂はどれもあいまいで、誰も本当のことを知らない。
けれど、それが逆に不安を煽っていた。
俺とオレンはというと、そのとき――風呂ブースにいた。
「……なあ、スペア。マジで何も気づかなかったよな?」
オレンがタオルを首にかけたまま苦笑する。
「うん。泡立ててる間に事件が起きてたとか言われてもな……」
「俺たち、平和すぎたんだな」
冗談を交わしながらも、どこか引っかかっていた。
“異香班”という単語が耳に残る。
「異香班って何?」
「香りの秩序を守る班らしいぜ。
穢れた香り――“穢香”を処理する専門部隊だって」
「穢香……?」
口にした瞬間、空気がひやりとした。
ただの言葉なのに、どこか生々しい。
「どうやら、穢香に触れた誰かの香りが“悪臭”に変わったらしい」
オレンの声が低くなる。
「瓶が割れて、香りが広がって……。
調香師様が結界を張って異香班が来た。相当ヤバかったらしい」
「……そんなことが、俺たちが風呂に入ってる間に……」
「まあ、無事だったならいいけどな」
そう言って笑うオレンに、俺もつられて笑った。
でもその笑いは、どこか乾いていた。
湯気の向こうで見た“平和な時間”が、急に遠く感じる。
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放課後。
俺は中庭のベンチに腰を下ろしていた。
噂では、暴走を起こした精油はまだ療養中らしい。
(……香りが“穢れる”って、どういうことだ?)
そんな設定、ゲームにはなかった。
けれどここは、もう“設定の中”じゃない。
そう思うと、胸の奥がざわついた。
ミントの葉を指で潰す。
香りが立ち上るたびに、ほんの少しだけ落ち着く気がする。
(……穢香の影響で、香りが悪臭に変わった――)
誰もがそう口にしていた。
異香班が出動し、調香師様の結界の中で鎮静処理を行ったという。
けれど、その“処理”が何なのかは、誰も知らない。
風が吹いた。
ミントの清涼を押しのけるように、鋭い香りが混ざる。
「……っ、この匂い……」
胡椒のような、乾いた刺激。
どこか現実の台所を思わせるスパイスの匂い。
顔を上げた瞬間、黒い影が視界をよぎった。
長い黒のコート。
銀のチャームが胸元で光り、落ち着いた足取りでこちらへ歩いてくる。
他の精油たちとはまるで違う雰囲気。
「お前が――“スペアミント”か」
低く静かな声。
まるで風そのものが言葉になったようだった。
「え、あ……はい。
あんた、誰……?」
「ブラックペッパー。
この学園の異香班のリーダーだ」
「いこうはん……」
昨日、オレンが話していた名前だ。
香りを“献上する”側とは別に、穢香に対処する“守り”の精油たち。
「簡単に言えば、外敵を鎮める役目を負っている。
お前たちが“香りを献上する”側なら、俺たちは“香りを守る”側だ」
「守るって……穢香から?」
ブラックペッパーは短く頷いた。
「先日の暴走、見ただろう?」
「いや……その時、俺たち風呂にいて……」
「……風呂、ね」
わずかに口角が上がった気がした。
その微笑には、針のような静けさがあった。
「見てなくても感じるはずだ。
――空気の濁り。香りの歪み。
穢香はどんな香りにも潜む。混ざりやすいほど、侵されやすい」
その言葉に、心臓が少し跳ねた。
「お前の香り、“万能適応型”だろう?」
「え……」
「どんな精油とも混ざれる。それは強みでもあり、弱点でもある。
――穢香は“混ざれる者”を好む。最も染まりやすいからな」
ブラックペッパーの瞳がまっすぐ俺を射抜く。
鋭く、それでいて静か。
見透かされているような感覚だった。
「……俺、そんなつもりじゃ……」
「別に責めてはいない。
ただ、気を抜くなというだけだ。
お前が穢香に触れたら、周囲ごと濁る」
淡々とした声。
けれど、その奥に何かが潜んでいた。
「……なあ、これって“ゲームの設定”とかじゃなくて?」
ブラックペッパーは一瞬だけ目を細めた。
そして、静かに笑う。
「面白いことを言うな。
――お前、現実と夢の区別がついていないのか?」
「……え、今、笑った?」
「スペアミント。お前はいい香りだ。
だが、油断するな。
この学園の香りは、甘く、脆い。
――放っておくと、腐る」
そう言って、指先で俺の胸元を軽く叩く。
そこから、ピリッとしたスパイスの香りが立ちのぼった。
「お前の香り……試す日が来るかもしれんな」
それだけ言って、彼は背を向けた。
風が吹き抜け、黒いコートの裾が揺れる。
あとに残ったのは、かすかな胡椒の香りだけ。
「……なんなんだ、あの人……」
呟いても、誰も答えない。
けれど胸の奥に、確かに“何か”が引っかかった。
それは恐怖とも違う。
ほんの少しだけ、刺激的な――ざわめきだった。




