2-8
昼下がりの香奏院。
ガラスの天井越しに、やわらかな陽が差し込む。
風に揺れるハーブと柑橘の木々が、ゆるやかに香りを放っていた。
中庭の一角では、レモンとグレープフルーツが並んで昼食を広げていた。
白いベンチの上、鮮やかなランチボックスが二つ。
どちらも兄譲りの明るい性格で、食べているだけで空気が甘くなるようだった。
「兄貴、昨日は早かったよなー。レモンの部屋、すぐ出てったし」
「うん、ちょっと話しただけで“やっぱ帰る”って。
“あいつ、部屋で待ってるかもしれないし”ってさ」
「マジか、相変わらず真面目っていうか……律儀っていうか」
二人の笑い声が風に溶けていく。
その時、パンの包みを片手に通りかかった影にレモンが手を振った。
「あ、スペア!」
「ん? おー、お前らか。昼飯、ここで食ってんの?」
「うん! ベンチ空いてるし、一緒にどう?」
「……じゃ、遠慮なく」
スペアは苦笑しながら腰を下ろした。
噴水の音が涼しく響く。
昼の空気は穏やかで――けれど、その穏やかさが、かえって胸に刺さった。
(……オレン、昨日も待ってたんだよな)
学園中が沸いた“香水献上イベント”のあと。
オレンはレモンの部屋に顔を出して、少し話しただけですぐに帰ったと聞いた。
「同室のスペアが戻るかも」――そう言って。
(俺は……あの時間、出かけていたのに)
思い出すのは、あの夜の光と香り。
ゼラニウムとラベンダーに誘われて、気づけば帰りが遅くなっていた。
浮気じゃない――そう思っても、あの時間の熱は、簡単に言い訳できるものじゃない。
そして、そんな俺を信じて待ってくれていたオレン。
ポットに紅茶を淹れて、ケーキまで用意して、
帰ってきた俺に笑ってくれた、あの優しい目。
思い出しただけで、胸の奥がきゅっと痛くなった。
「でさ、兄貴と一緒に暮らしてるんだよな? どう? 順調?」
唐突なレモンの問いに、スペアはビクリと肩を跳ねさせた。
「え、あ、ああ? う、うん……まあ……順調……?」
声が妙に上ずる。
グレープフルーツがじっとこちらを見て、眉を上げた。
「今、“?”ついたな。めっちゃ怪しいんだけど」
「ち、違う! 別に、変な意味じゃ……!」
必死に取り繕うほど、脳裏に昨夜の記憶が滲み出す。
オレンの手のぬくもり、柑橘の香り、あの“好きだよ”の声――。
(うわ、やめろ俺、顔に出すなって!!)
内心叫んでも、もう遅かった。
レモンとグレープフルーツが、同時にぽかんと口を開けていた。
「……ねぇ、スペア」
「まさかとは思うけど……」
顔を見合わせ、二人の声が重なる。
「「もう兄貴と香水結びしたの!?!?」」
「ぶはっ!? な、なんでそうなるんだよ!!」
スペアが慌ててパンを落とす。
拾い上げるより早く、兄弟の突っ込みが飛んでくる。
「顔真っ赤だし!」
「“順調”って言いながら汗かいてた!」
「やっぱそうなんだ、兄貴やるなぁ〜〜〜」
「ちがっ、違うって! そんなんじゃなくて! その……香りの……調整で!︎︎変な意味じゃない!」
「出た、“変な意味じゃない”!!」
「兄貴の口癖そっくりじゃん!」
「いやだから違うってばあああ!!!」
昼の中庭に、スペアの情けない叫びが響き渡った。
レモンとグレープフルーツは突っ伏して、笑いを堪えきれない。
「兄貴……やっぱり本気だったんだな」
「うん、あれは完全に恋の香りだね」
「違うって!! お前ら、ほんとに誤解だって!!」
その声さえ、春の風に溶けて明るく響く。
スペアは顔を覆いながら、深く息を吐いた。
(……ほんと、あいつらには言えない)
噴水の水音がやけに遠くで響いている。
柑橘の香りが風に乗って流れ、
ふと胸の奥に残る“オレンの香り”が、そっと混ざった。
(……待っててくれたのにな。俺、ほんと、ずるいよな)
小さく呟いた言葉は、風にかき消された。
ただ、頬をなでる風が少しだけあたたかく感じたのは――
あの夜の香りが、まだ消えていないからだった。




