2-7
調香師が去ったあと、部屋には一瞬だけ静寂が訪れた。
陽の光がガラス瓶に反射して、金と紫のきらめきが壁を揺らす。
あの言葉――
“どちらも素晴らしい”“ミントが中心にある”――
まだ胸の奥に残っていた。
「……はあ、やっと終わったな」
俺が息を吐くと、隣のオレンがにかっと笑う。
「まあでも、勝負はついてねぇけどな?」
その一言で、空気がまたきな臭くなった。
ラベンダーが目を細め、ゼラニウムが腕を組んだまま睨みつけてくる。
「“勝負はついてない”とは、どういう意味だ、オレン」
ゼラニウムの声が低く落ちる。
「調香師様は“優劣はつけられない”と仰っていたはずだ」
「だからこそだよ。
――スペアはまだ、どっちかを“選んで”ないだろ?」
オレンがそう言って、さりげなく俺の肩に手を回す。
自然な動作。
けれど、それが完全に引き金になった。
「その手、どけてくれる?」
ラベンダーの声がやけに穏やかで、逆に怖い。
「スペアは今、僕らと過ごした香りが残ってる。
それを“上書き”しようとするのは……マナー違反じゃない?」
「はあ? 上書き上等だろ。
昨夜の香りなんて、朝になったら消えるもんだ」
「言ったな……」
ゼラニウムの薔薇の香りが、一気に濃くなる。
空気が甘く、熱を帯びていく。
「やばいやばいやばい! ちょ、待てみんな落ち着け!!」
俺が間に割って入るも、全員聞く耳を持たない。
「スペア、こっちに来い。俺の香りでリセットしてやる」
オレンが腕を伸ばす。
「お前なんかより、私の香りで包んだ方が美しいに決まっている」
ゼラニウムもすかさず掴みにくる。
「僕だって……もう一度、“安らぎ”を混ぜたいのに!」
ラベンダーまで参戦。
三方向から伸びる手。
逃げ道、ゼロ。
「……あのなぁ! 俺の身体は一つしかねぇんだってば!!」
訴える声も虚しく、気づけば俺はまた――
三人の間に閉じ込められていた。
柑橘と花とハーブの香りが混ざり合い、頭がクラクラする。
調香師の部屋を出てたった数分で、香りの修羅場が再開だ。
そのとき――
「……うるさいぞ、お前ら」
ローズマリーの冷たい声が響いた。
廊下の扉から顔を出した彼は、完璧な無表情で言う。
「次の班の献上時間だ。香りで廊下を満たすな」
「「「……すみません」」」
全員が即座に正座。
ローズマリーはため息をつき、
「……反省したなら早く換気」とだけ言って立ち去った。
その背中が見えなくなるまで、誰も動けなかった。
「……こえぇ……」
俺がぽつりと呟くと、
オレンが苦笑して肩をすくめる。
ラベンダーは恥ずかしそうにうつむき、
ゼラニウムは髪をかきあげながら小さくため息をついた。
「……まあ、今日は引き分けってことで」
オレンがそう言うと、三人の視線が一斉に俺へ向く。
「次こそ、君を選ばせてもらう」
ゼラニウムが薔薇を摘みながら言う。
「うん……僕も、絶対に眠らせないから」
ラベンダーも、ほんのり笑みを浮かべて。
「おいおい、勝負は俺がもらうぞ」
オレンは軽く拳を握る。
(いや、勝負とかいらないって……!)
ため息をついた俺の鼻先を、三人分の香りがかすめていく。
甘く、温かく、少し意地っ張りな空気。
――みんな、ほんとに止まらないな。
その中で、俺のミントの香りだけがひっそりと漂っていた。
誰のものでもない。
でも、誰と混ざっても、ちゃんと自分の香りを保てるように。
(……俺、しばらく鼻が死ぬかもしれない)
そんなオチを心の中でぼやきながら、
今日もまた、香奏院の朝がゆっくりと香り始めた。




