2-3
部屋のドアを開けた瞬間、香りがふっと逃げていく気がした。
ミント、ラベンダー、薔薇――それぞれの温度を帯びた余韻が、夜気に触れて薄まっていく。
冷たい空気が胸を撫でるたびに、肌の表面から香りが剥がれていくようで、思わず指先をぎゅっと握りしめた。
けれど、胸の奥にはまだ残っていた。
誰かの手の温度と、喉の奥に焼きついた香りの名残。
“スペアミント”という名前が、血管の中まで沁み込んで離れなくなったみたいで、息をするのも少し怖かった。
(……早くシャワー浴びないと)
そんな言い訳を心の中で何度も繰り返す。
足音を忍ばせ、そっと部屋に足を踏み入れたその瞬間――
「……帰り、遅いじゃん」
予想よりずっと近くで、声がした。
ベッドの上、カーテン越しにゆらめく影。
てっきり寝ていると思っていたオレンの瞳が、薄闇の中でまっすぐこちらを射抜いていた。
「……あ、いや……ちょっと……」
言い訳の続きは、香りにかき消された。
自分でもはっきり分かる。
部屋に入った瞬間に、あの二人の香りを――ラベンダーとゼラニウムの香を、
そのまま引き連れてきてしまったことに。
「ラベンダーと、ゼラニウム、だよね」
それは問いというより、確認の一言だった。
逃げ場のない、淡々とした響き。
でもその穏やかさが、かえって痛かった。
オレンはシーツを捲ってベッドから立ち上がる。
裸足のまま、ゆっくりと床を渡り、俺の前に立つ。
そして、無言のまま、シャツの襟元に指を伸ばした。
「……ここ、濃い。まだ、熱持ってるし」
指先がほんのわずかに震えている。
怒っている、というより――呆れている。
それがいちばん堪えた。
「ごめん。誘われて、断れなくて……」
声が自分のものじゃないみたいに小さくなっていく。
オレンは何も言わず、指を離さなかった。
ただ、じっと俺を見つめたまま、静かに呼吸をしている。
その沈黙が、言葉よりも重かった。
やがて彼は、少し距離を取ると、ベッドの脇に置いてあったトレーを持ち上げた。
そこには、保温ポットと、小さくラッピングされたケーキがふたつ。
リボンが少し緩んでいるのが、どれだけ待っていてくれたのかを物語っていた。
「今日さ。お前と、お茶しようと思って……ずっと待ってたんだよ」
その声は穏やかだった。
でも、穏やかすぎて、胸の奥に小さな痛みを落としていった。
「部屋にオレンジティーあるって言ったら、スペア、飲みたいって言ってたからさ。
……今日の分、淹れておいたのに」
ポットの蓋を開けると、温かな柑橘の香りがふわっと広がる。
さっきまでまとっていた花の香りとはまったく違う。
刺激がなく、やさしくて、どこか“家”を思わせる匂いだった。
「オレン……ごめん、ほんとに」
声に出すと、情けなさで喉が詰まりそうになった。
でもオレンは、首を横に振った。
「謝ってほしいわけじゃない」
静かな声だった。
でもその下に、柑橘の皮をほんの少し焦がしたような苦みが滲んでいた。
オレンは俺の正面に立つ。
そして、不意に――顔をぐっと引き寄せた。
「……えっ」
視界が近づく。
息を吸う暇もなく、柔らかな感触が唇に触れた。
「……っ!」
動けなかった。
唇の上で、オレンの吐息だけが微かに揺れる。
長くはなかった。
けれど、その短い接触の中に、たしかな温度が宿っていた。
――それは、静かなキスだった。
責めるでも、試すでもない。
ただ「ここにいる」という証のような。
「は……!? ちょ、待って……」
一歩下がり、慌てて息を吐き出す。
「俺、キスは初めてなんだけど……!? え、いや、マジで……!」
オレンはわずかに眉を上げ、まるで大したことではないように答えた。
「……同室の仲だろ。せめて、このぐらいさせろよ」
一拍の間のあと、ふっと肩の力を抜く。
その動作に、どこか安心と悔しさが同居していた。
「……疲れただろうし、お茶にしようぜ」
そう言って、トレーを持ち上げ、ソファの方へ歩いていく背中。
その歩みはゆっくりで、どこか誇らしげにも見えた。
残された俺は、まだ唇に残る熱を指でそっとなぞる。
指先がわずかに震えた。
胸の奥がざわついて、言葉が出ない。
(……なんだよ、もう……)
柑橘の香りが、静かに部屋を満たしていく。
花々の香りが遠くに霞んで、かわりにオレンの匂いがゆっくりと沁みていった。
それは、さっきまでの夢みたいな香りよりもずっと、やさしくて――
確かに“現実”の匂いだった。




