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篠宮友梨奈のフィールドワーク 参 〜九州巨神伝〜

 霧深い山々と広大な海原が交わる南九州は薩摩の地。この地には、恐ろしい大巨人が存在したという伝説が語り継がれている。巨人は山に腰掛け海の水で顔を洗うほどの巨体を持ち、その足跡は谷や池となった……。

 「いいか、お前たち……よく聞いて覚えておくんじゃぞ。……昔々、この薩摩・大隅の地には恐ろしい巨人がおった。その名を『大仁弥五郎太』(おおひとやごろうた)と言うんじゃ。」   

 老人のしゃがれ声に広い座敷の囲炉裏端に座る子供たちは耳を傾ける。冬の風が山の向こうから吹き降りる夜、囲炉裏の火がパチパチと弾ける音が、まるで何かの啓示のように響いていた。

 「弥五郎太は、どころか来たのか、誰も知らん。ただ、昔からこの地方では、あの巨人の事をこう伝えてきたんじゃ"神か悪魔か、それとも……この世ならざるものなのか"と。弥五郎太は人の姿をしておる。ある者はその正体を隼人族の首領とも朝廷の役人・武内宿禰(たけのうちのすくね)とも呼んでおったが、それはあくまでも憶測に過ぎん。いずれにしろ、奴の本当の正体は、破壊の神じゃった……。」

 老人がそう語ると、子供たちは無意識に肩を寄せ合った。彼らの影が炎に照らされて大きく揺れる。老人はゆっくりと煙管をふかし目を細めた。

 「弥五郎太が目を覚ます時、この地には必ず災いが降る。大地は裂け、山が崩れ、村々は火の海になる。奴の一歩で大地は震え、奴の息吹で嵐が起こる。そして、奴が拳を振り下ろせば、天地の理をも砕く一撃となる。」

 老人はそこで言葉を切り囲炉裏の火を見つめた。子供たちの誰かが、ゴクリと唾を飲み込んだ。右目の下に傷のある一人の少年が、恐る恐る老人に尋ねた。

 「じいちゃん!それじゃあ、僕たちはどうすればよかと?」

 「それは、誰にも分からんことじゃな。じゃがな、ひとつだけ確かなことがある。ヤツが現れし時、この地に安寧はない……もし再び弥五郎太が目覚めることがあれば、ワシらは神に祈るだけじゃろうて……。」

 老人はそこで言葉を切り、ゆっくりと子供たちを見回した。外では風が強くなり、戸を叩く音が響いた。まるで巨人の足音のように……。

         序章 

 1963年、猛烈な暑さだった夏が終わり、幾分涼しくなった秋の夜長。鹿児島の大隅町では冷たい風が田畑を吹き抜け、山間には月の光が朧げに降り注いでいた。しかし、その静けさを突き破るように、大地がうめき声を上げた。驚いた住民たちが次々と家から出てくる。

 地震だ……。老夫婦が暮らす茅葺き屋根の家が激しく揺れる。古い柱が不気味な音を立て、

吊るされた照明がぐるぐると振り回された。  

 台所の食器が次々と床に散らばり、座敷の掛け軸が壁から剥がれ落ちる。

 「こんな地震は初めてじゃ!おい、外へ逃げんと!」

 老人が声を張り上げる。妻は足をもつれさせながら庭先へと駆け出した。家の周囲には田畑が広がっているが、遠くの山影がかすかに揺らいで見える。

 震源は近い……それが本能的に分かった。だが、地震の収まる気配はなく、大地はなおも唸り続けた。そして不意に、空が赤黒い光に包まれる。大隅町の中央部、かつて古代の遺跡があったとされる一帯で、突如として巨大な裂け目が開いたのだ。その場に駆けつけた町の人々は、目の前に現れた光景に言葉を失った。露出した地中から、かつて見たこともない巨大な石像が姿を現したのだ。その石像

は異様だった。肩口あたりまでしか見えないが、高さ20メートルを超える巨体は、不気味なまでに人間の姿を模している。

 だが、その顔には表情と呼べるものがなく、両目と口はぽっかりと黒い空洞を開けていた。その胸には幾何学的な模様が彫られている。

 「これが……大仁弥五郎太か……!?」

 町の人々が口々に呟く。伝説に語られた破壊神、そのものの姿だった。しかも、それはただの石像ではなかった。目の前で、石像の胸に刻まれた幾何学模様が微かに光を放ち始めたのだ。

 「なんじゃ。動いておるのか……!?」

 誰かの声が響く。その瞬間、石像がゆっくりと、まるで何世紀もの眠りから目覚めたかのように動き始めた……。

 幾何学模様が光を放ち始めた石像は、ついにその巨体を揺らした。足元にあった土や石が崩れ、周囲に派手な破砕音が響く。轟音と共に石像が立ち上がると、その姿は夜空を覆うほどにそびえ立ち、まるで神話の巨神がこの地に降臨したかのようだった。住民たちはその場に釘付けとなり、目の前の光景が現実なのか夢なのか、誰一人として理解できない。

 「……嘘じゃろうが……こげなこと……」

 年老いた男性の声がかすれた。震える手で杖を握りしめ、呆然と立ち尽くしている。隣で若い女性が涙を流しながら抱き合う子供たちを背後に隠している。石像……いや、破壊神、弥五郎太の全身からは、こびりついた古代の火山岩が崩れ落ちる音が絶え間なく響き、そのたびに大地が微かに震える。かつては静かな山間の風景が、今や恐怖と混乱の場と化していた。弥五郎太の胸の光は次第に強くなり、周囲を青白い輝きで照らす。暗闇だったはずの田畑が不自然なほど明るくなり、空には奇妙な光の筋が走った。

 「何故……なぜこの時代に目覚めるんじゃ。戦争で傷ついたこの国がようやく……」

 右目の下に傷のある、村の長老と呼ばれる老人は膝をついて空を仰ぐ。その目は涙に濡れており、彼が語り継いできた伝説が現実になったことへの恐怖と後悔が滲んでいた。若い男性が問いかける。

 「じいちゃん、この巨大な石像、本当に伝説の破壊神・大仁弥五郎太なんか?どげんかならんと!?」

 老人は首を横に振り、答えを持たないその姿に、青年はますます不安を募らせた。誰もが思い知る。これが自分たちの手には負えない存在であることを。

 一方、弥五郎太はゆっくりとその巨体を動かし始める。彼の一歩は大地に深い窪みを穿ち、衝撃が四方に走る。その巨大な足が一件納屋を踏み潰すと、干し草が宙に舞い粉塵が空を覆った。人々は悲鳴を上げながら逃げ惑うが弥五郎太はそれを意に介さない。ただ無慈悲な歩みを続けるだけだった。

 「逃げろ!逃げるんだ!」

 誰かが叫ぶがその声さえも弥五郎太の足音に掻き消される。やがて町の中心部に達した弥五郎太は、ゆっくりと腕を振り上げた。その動きにより、鉄筋コンクリートの建物を豆腐のように粉砕しながら進み、電柱が次々と倒される。まるで空気そのものが押しつぶされるような圧力に住民たちは耳を塞ぎ、膝をついて震えた。

 「どうして……なぜ弥五郎太様がこんなことを……!」

 祈るように叫ぶ女性がいる。だがその祈りは弥五郎太には届かない。弥五郎太が一撃を振り下ろすと、町の広場が瞬時に瓦礫とかした。その破壊の光景を目の当たりにした人々は言葉を失い、ただ自分たちの無力さに打ちのめされる。唯一の救いは直接の死者が出なかったことだ。長老が呟く。

 「これは天罰…人間への罰じゃ。山々を切り開き、河川に毒を垂れ流し、神々を敬うことをやめ、長きに渡り、ワシらがこの地を踏み荒らしてきた報いなんじゃ……」

 だが、本当の理由を知るものはいない。彼らが見たのは、ただ、圧倒的な力を持つ大巨人の目覚めだった。

        第壱章

 弥五郎太が目覚めた翌日……。九州南部は未曾有の混乱に陥っていた。鹿児島を中心に被害は拡大し、破壊された町村からは避難民が後を絶たない。弥五郎太はまるで何かに導かれるように北上を続け、通り過ぎる場所を瓦礫の山へと変えていく。その巨体は圧倒的だった。身の丈50メートル、足の一歩は10メートルに及ぶ。森を薙ぎ払い、田畑を踏み潰すその姿は、まるで自然そのものが人間に牙を剥いたようだった。弥五郎太の歩みに伴う振動は地震のように広がり、離れた地域の家々の窓ガラスを次々に砕いた。遠くから眺める人々の目には、その姿が霞んだ蜃気楼のように映るが、胸から放たれる光だけははっきりと見える。

 「奴は一体、どこまで行くつもりだ……?」

 熊本市内の防衛隊基地では、混乱が広がっていた。数十名の隊員がスクリーンに映し出された弥五郎太の映像に注視している。大型スクリーンには、水俣市内を蹂躙し、熊本県内を北上しながら進む弥五郎太の移動経路が赤い線で表示されていた。

 「阿蘇方面に向かっている可能性が高い。」

 分析官の一人がそう結論付けたが、その理由は誰にも分からない。ただひとつ確かなのは、弥五郎太が意図的に進路を取っているということだ。

 「これ以上、奴の好き勝手にさせるわけにはいかん。戦車隊と戦闘機編隊で進路を阻むしかあるまい。」

 指揮官が冷徹に指示を下す。その言葉には迷いはないように見えるが、指先のペンは細かく震えていた。彼も分かっている。通常兵器がこの巨神を止められる見込みは限りなく低いことを……。

 その頃、弥五郎太の破壊の余波は鹿児島全土に広がり、池田湖周辺でも異変が生じていた。地震の影響で湖底に亀裂が入り、水温が異常に上昇しているという報告が上がっていた。湖畔に住む住民たちは不安に怯えながらも、湖の水が微かに波立つ様子を眺めている。

 いつもは静かで穏やかなこの湖が、まるで生き物のように呼吸しているかのようだった。

 「……何か、出てくる。」

湖畔で貸し船業を営む男が呟いた。その視線の先、湖の中央部に泡が立ち始めている。 

 ついには湖面全体を揺るがすような激しい波紋が広がった。

 そして、それは姿を現した。最初に見えたのは巨大な背びれだった。それは鋭くそり立ち湖面を切り裂くように浮かび上がる。その背びれの後ろから、数十メートルを超える胴体が姿を現し、ついには首が頭をもたげる。

 「イッシーだ……!」

 貸し船業の男は、驚愕し、目を見開いた。長い首を持つその巨体は、古代から伝承されてきた「池田湖の大海龍」「白亜の(くちなわ)」の姿そのものだった。イッシーは低く唸るような咆哮を上げる。

 その声は湖畔に響き渡り、人々を恐怖と衝撃に包み込んだ。しかし、この瞳には弥五郎太のような破壊の意志ではなく、何か別の感情が宿っていた。弥五郎太が歩き去った方を睨みつけると、クネクネと海へと入って行く。

 「いったい、何が始まるんだ……?」

 男は震える声で呟いた。誰も答えることができない。ただ、弥五郎太とイッシーという二つの存在が同じ九州に目覚めたことで、この地に何か取り返しのつかない変化が起こりつつあることだけは、明らかだった。

 一方、東京では首相官邸に非常対策本部が設置されていた。戦後から20年、ようやく復興し、高度経済成長の波に乗り始めた日本は、新たな脅威に直面していた。

 「弥五郎太の北上を止めるには、九州全土の防衛力を総動員する必要があります。」

 防衛庁長官が地図を指し示しながら説明する。その周囲では、閣僚たちが不安げな顔で耳を傾けている。

 「しかし、通常兵器では効果がない可能性が高いと報告が上がっています。このままでは九州全域が壊滅的な被害を受ける恐れがあります。」

 会議室には重苦しい沈黙が漂った。戦後の日本が抱える軍事力の制約、そして災害への脆弱性が、この事態をより深刻なものにしているのだ。その中で一人の男が口を開いた。

 「ならば古代の知恵に頼るべきではありませんか?」

 彼は篠宮友梨奈を推薦した。歴史·民俗学者として名高い彼女は、かつて青森や京都で、伝承の調査を行い、今は、九州各地で神話の研究を行っているとされている。

 「篠宮博士なら、この事態を解決する鍵を握っている可能性があります。」

 こうして、福岡の中高一貫校で教鞭を執っていた篠宮友梨奈は、政府からの要請で、九州全土を駆け巡ることになるのだった。

        第弐章 

 福岡市の中心部にある女子校内の研究室。

 非常勤教師の篠宮友梨奈は、自分の机の前で静かに俯いていた。目の前には、政府から送られてきた正式な委任状が置かれている。

 「政府直々の要請……召集令状みたいね。そんな重責を担えというの……」

 声に出しても、その重みは薄れなかった。

 友梨奈はわかりやすく明晰な論理と情熱的な授業で知られていたが、今の彼女の顔には迷いや恐れが滲んでいた。伝承や遺跡の研究に命をかけることと、現実の危機に身を投じることはまるで次元が違う。それでも、九州全域が危機に陥っているという事実は、彼女の心を揺さぶり続けた。

 「……稗畑先生なら、どう思うだろう……私を推薦して下さったみたいだけど。」

 そう呟くと、彼女は机上に置かれた黒電話に手を伸ばした。稗畑小三郎・日本を代表する民俗学者であり、彼女の恩師でもある人物に意見を仰ぎたかった。

 その夜、東京の首相官邸内の緊急対策本部。

 「篠宮君は必ず動きますよ。あの娘の信念を知っているからこそわかるのです。」

 稗畑教授はそう言って、首相を始めとする閣僚たちを安心させるように微笑んだ。彼の言葉は篠宮友梨奈への信頼そのものだった。

 彼女が自分の道を迷った時に正しい選択をすることを確信していた稗畑は、電話越しに彼女の問いに答えた。

 「篠宮君、君はこれまで人々の心の中に眠る伝承や歴史を掘り起こしてきた。だが、今回、君が問われているのは、それをどう現実に役立てるかということだよ。」

 友梨奈は黙って恩師の言葉に耳を傾けた。

 「私が君を推薦した理由は、君がただ知識を持っているだけの学者ではなく、その知識に命を吹き込む力を持っているからだ。九州の伝承に伝わる巨人たちは、私がこれまで知らなかった真実を語り始めるかもしれない。篠宮君、君がその声を聞くべきだ……。」

 友梨奈はは意を決し、九州各地の調査に乗り出した。最初に訪れたのは佐賀県吉野ケ里だった。古代の環濠集落跡でまだ本格的な調査、発掘作業が始まっていない中で、彼女は壁画や出土品の中に、巨人たちに関する手がかりを探し続けた。

 「この模様……太陽神を象徴するものなのかしら?」

 彼女の指が触れたのは、弥五郎太の胸に刻まれた幾何学模様と似た意匠だった。それはまるで、古代の人々が何かを封印するための祈りを込めたもののように見えた。一方、島原半島の雲仙岳を訪れた際には、地元民たちから「みそ五郎左衛門」(みそごろうざえもん)の伝承を聞き出すことに成功した。

 「五郎左衛門は、災いを鎮めるために眠りについた巨人じゃよ。大昔、この地に災いが起こった時、五郎左衛門が目覚めて荒ぶる大地を鎮めたとワシらは聞いとるんじゃ。」

 老人の言葉は、友梨奈の心に新たな使命感を植え付けた。

 熊本県を瓦礫にした巨人は、なおも黙々と歩みを進めていた。大地を揺るがすその音は、まるで古代の太鼓のごとく山々に反響し、ついには阿蘇の広大な裾野へと到達する。そこにはもう人の気配はない美しい自然の景観が広がるばかりだった。

 「予測通りだな……」

 防衛隊・熊本基地の指令室。地図の上に弥五郎太の軌跡をなぞっていた分析官が、静かに呟いた。その言葉に、司令官が振り向く。

 「なぜ阿蘇なんだ?火山が目当てなのか?」

 「いえ、それは……まだ確証がありません。ですが……まもなく判明するはずです。」

 その時だった……ゴゴゴゴッ……。

 スクリーンに映る阿蘇山麓の山肌が微かに揺れ始めた。木々の葉がざわめき、小石が細かく跳ねる。

 「地震か?」

 「いえ、気象庁からの報告では周辺に有感地震の記録はありません。揺れは阿蘇に限定されているようです。」

 分析官の声が冷静に響いた直後だった。

 ……ボコッ…ボコボコッ……!

 地面が数カ所、隆起し始めた。まるで大地が内側から脈動しているかのように。次の瞬間、破裂するようにして地表を破り、何かが這い出てくる……。白くヌメヌメと光る肌。芋虫に似た数体の生き物は、どこか蛭のようでもあり、異様な気配を放っていた。赤い口元は吸盤状の形状をしており、その内部に無数の鋭い刃が蠢いている。

 「な、何だアレは!?」「生体反応あり。どこから湧いた……!?」「弥五郎太はアレに反応したのか。」

 隊員たちの声が一斉に上がる。だが、それらの中で一人だけが反応の違う男がいた。目を見開き、息を呑んだ若い情報士官が、信じられないという口調で呟く。

 「……アレは、野槌(のづち)だ……。本当に、存在したのか……」

 その名を聞いた司令官が眉を寄せた。

 「野槌だと?民間伝承にある……あの……?」

 しかし答える暇もない。野槌と呼ばれた9体の怪物たちは、地を這いながら一斉に動き始めていた。1体が体を丸めたかと思うと、その筋肉の収縮によって弾丸のように弥五郎太へ跳躍する。続けて2体、3体……まるで獲物に襲いかかる群れのように。咄嗟に腕を振り払おうとする弥五郎太。しかし、その巨腕に食らいつく野槌は肉を裂き、刃の口で深く噛みつく。鋼のような皮膚をものともせず、次々と身体に食らいつく異形の生物たち。

 ……ドォォォォォ……ン!!

 ついに弥五郎太は大地を震わせながら背中から崩れ落ちた。山肌が崩れ、土煙が舞う地鳴りとともに、阿蘇の地は一変した。

 だが、いかに獰猛とはいえ、野槌の牙では弥五郎太に致命傷は与えられなかった。人間にとっては十分すぎる脅威だが、相手が悪かった。弥五郎太の巨体は野槌の数十倍もある。

 大人の人間と子猫ほどの差があるのだ。一体、また一体。腕に喰らいついた野槌を、弥五郎太は両手で握り潰した。肉が潰れぬめりを含んだ橙色の体液が飛び散る。別の一体は両手で引き裂かれ、真っ二つになった胴体が投げ捨てられる。足元にしがみつくものは、容赦なく踏み潰された。肉と体液と泥が混ざり、地面に惨たらしく貼りつく。そして、最後の一体。執拗に首元を狙おうとした野槌を、弥五郎太は掴み上げると、低く濁った唸りと共に、巨大な顎が開く。鋭い歯列が覗いたその口で野槌の頭部にかぶりつく。ぐちゃりと何かが潰れる音がした。さらにもう一口、二口。

 咀嚼音の後、しばし、沈黙……。

 やがて、阿蘇の原に、八体の野槌の無惨な残骸が転がる。大地に散ったその躰は、もはや原形をとどめていなかった。

 「終わったのか……なんて奴だ……」

 遠隔観察していた防衛隊員の誰かが、ぽつりと漏らす。次の瞬間、阿蘇の空に響き渡ったのは、勝ち名乗りの咆哮。弥五郎太が天を仰ぎ、腹の底から響くように吠える。全てを制圧した者だけが持つ、圧倒的な威圧感が、空間を満たした。弥五郎太の表情には、もはや敵意すら残っていない。ただ冷酷に次の行動を見据える者の顔だった。……さて、次はどこへ行こうか。そんな問いかけを投げかけているみたいだった。             

 ……だが、その時。ふと、弥五郎太の動きが止まった。全身の筋肉が僅かに張り、視線が大分方面へと注がれる。異変は静かに、しかし確かに近づいていた。阿蘇の外れ、遥か彼方の海の気配が、風に乗って届く。その海面に黒く光る影が蠢いていた。ゆらり……と、巨体の一部が水面から現れる。うねるような背びれ、硬質な鱗が太陽を反射していた。そして、ゆっくりと、だが確実に陸地に近づいてくる。……それは、大海龍とも、白亜の(くちなわ)とも呼ばれた、伝説の怪物。

 「イッシー……!奴を追ってきたのか?」

 スクリーンの前で、誰かがその名を叫ぶ。

 神話としか思われていなかった存在が、再び姿を現した。弥五郎太と同等の体格が陸地に上陸し、速度を上げて阿蘇へと向かう。    

 巨人は再び吠えた。弥五郎太の目が、燃えるように細められる。次なる戦いは、すでに始まっていた……。

        第参章

 佐賀の吉野ケ里、そして長崎の雲仙……神話と史実の交錯するその土地で、友梨奈は静かに手帳を閉じた。現地での調査は一定の成果を得たものの、手がかりは断片的で、まだ全体像には程遠い。だが、それでも何かが、確かに浮かび上がろうとしている。そんな手応えを胸に、彼女は福岡の地へと戻ってきていた。博多の駅前は、九州から脱出する人の波に包まれていた。雑踏の中にいても、妙に頭が冴えている。人混みも喧噪も、今の彼女には雑音に過ぎなかった。……その時だった。

 「すみません、あの、篠宮友梨奈さんですか?」

 少し鼻声で柔らかく、けれど芯のある声が耳に届く。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。目を引くのは澄んだ大きな瞳。

 高く繊細な鼻梁に流れるような黒い長髪。

 そして、白磁のような肌。どこか現実味の薄い、不思議な存在感をまとった美少女だがその中に確かな意志の光があった。

 「宮脇すみれと申します。今年大学に入って、稗畑教授の教えを受けています。教授から、篠宮さんのお手伝いをするように言われて……今日、こちらに参りました。」

 少女は、はにかむように微笑んだ。その笑顔に、友梨奈はふと胸の奥にぞわりとした感覚、祖母と自分に通じる何かを覚える。それが何なのかはまだ分からない。ただ、確信だけはあった。……この出会いは偶然ではない。

 「ありがとう、すみれさん……ちょうどいいわ。これから志賀島へ向かうところなの。長旅で疲れている所を申し訳ないけど、一緒に来てくれる。」

 「はい、もちろんお供します。」

 こうして、二人は並んで歩き出した。博多の街を抜け、歴史深い志賀島へと向かう。

 その頃、阿蘇山では弥五郎太とイッシーが遂に激突した。弥五郎太はその巨大な腕を振り上げ、握り固めた拳で周囲の地形を変えるような一撃を繰り出した。一方で、イッシーは太い胴体をくねらせて、その鋭い牙と尻尾の鞭打、敏捷な動きで応戦する。阿蘇周辺の住民たちは、遠くの轟音を聞き、何事かと空を見上げる。イッシーが弥五郎太の足に噛みつくと、弥五郎太は痛みと怒りの混じった咆哮を上げ、その巨体が転倒する。その振動で山肌が崩れ、大量の土砂が流れ落ちた……。

 閣議での決定により、戦車隊と戦闘機編隊が出動。上空からミサイルの雨が降り注ぎ、地上からは砲撃が弥五郎太の巨体を狙った。

 「このまま、防衛隊の全戦力でイッシーを援護せよ!派遣されている現場の兵士は、地域住民の避難誘導も引き続き行うのだ。」

 陣頭指揮をとる熊本県の防衛隊司令官・芹沢の指令が響き渡る中、、兵士たちは必死に攻撃を続けた。その砲火は弥五郎太の攻撃を寸断し、巨龍に攻撃のチャンスを与えた。イッシーはその機会を逃さず、弥五郎太の腕に深々と牙を突き立てる……。

        第四章

 福岡の志賀島。潮風が吹き抜ける海岸に立つ友梨奈とすみれは、目の前に広がる遺跡の断片に目を凝らしていた。かつての志賀島は金印発見の地として知られるが、それ以上に「神々が降臨した地」とも語られている。

 「この錫杖……ただの儀式用具とは思えない……」

 友梨奈が指差す先には、奇妙な模様が刻まれた古代の錫杖が展示されていた。模様は扇と風を象徴するようにも見えた。地元の案内人が説明をする。

 「この島には、天狗が天を仰ぎ風を操ったという伝説があるんです。芭蕉扇(ばしょうせん)を使い突風や竜巻を起こしたとか。」

友梨奈はその話を聞きながら、頭の中で伝承の断片をつなぎ合わせていった。

 「もしこの錫杖と芭蕉扇が実在したのなら……それはただの伝説だけでなく、何かもっと根源的な力の象徴かもしれない。」

 その時、黙って聞いていた稗畑教授の教え子、宮脇すみれが口を開いた。

 「あの、実は私……その天狗を祀っている家の者なんです。」

 驚いて振り返る友梨奈に、彼女は静かに使命感と緊張が入り混じった事を語り始めた。

 「福岡県の筑豊地方にある添田町の英彦山(ひこさん)では、豊前坊(ぶぜんぼう)という天狗が神として祀られています。その大天狗は眠りについていると言われ、私の家系では代々、その目覚めを管理する役目を担っているんです。高添神社(たかぞえじんじゃ)の神主の孫である私が、正式な儀式を行えば豊前坊を長い眠りから、目覚めさせることができるかもしれません。でも……。」

 一瞬、彼女の声が揺らぎ、顔が緊張で強張る。

 「もし豊前坊が人々に災厄をもたらす存在だったら、私はどう責任を取ればいいのか……怖いんです……。」

 友梨奈はその言葉に耳を傾けながら、すみれの迷いを感じ取った。

 「すみれさん、大丈夫よ。私たちはその力を正しい方向に導くためにいるの。自分を信じなさい。あなた一人で抱え込む必要はないわ」

 その一言が、すみれの顔に少しだけ安心の色を浮かべさせた。

 阿蘇山の麓では、弥五郎太とイッシーの戦いは熾烈を極めていた。弥五郎太の巨大な拳が振り下ろされるたびに地鳴りが響き、周囲の岩が砕け散った。一方でイッシーはその俊敏さで弥五郎太の攻撃をかわし、鋭利な牙と尻尾の鞭打で何度も反撃を試みた。しかし、

 陸に上がった水棲の巨龍は、やはり長くは持たなかった。その勢いには少しずつ陰りが見えはじめていた。巨大な鱗の下、筋肉がきしみ、肺が乾いてゆく。生まれも育ちも水の中……イッシーは本来、湖の生き物なのだ。

 「このままでは……まずいぞ……」

 防衛隊の指令室、スクリーンの前で隊員たちは無言のまま顔を見合わせた。弥五郎太との力の差はほぼ互角、充分に勝機はあるが、それも体力があってこそ。このまま内陸での戦闘が続けば、イッシーに勝ち目はない。

 それを、イッシー自身が一番よく分かっていた……ならば、退くしかない。だが、ただ退けば、追いつかれ、潰される。だからイッシーは戦いの中に "欺き"を織り込んだ。時に防御に徹し、 時にわざと体勢を崩して見せる。

 攻撃の手を抜いたと見せかけ、後ろへ、さらに後ろへと体を動かす。少しずつ、少しずつ水のある方角へ……有明海。そこにたどり着ければ、状況は変わる。再び水を得たとき、真の力を取り戻せるはず……。

 「イッシーが逃げているのか?」「ちがう、あれは……誘ってるんだ。」

 指令室では気づいたものもいた。イッシーはただ逃げているのではない。生き残るため、勝利のために……戦術としての撤退をしているのだ。しかし、弥五郎太は気づいてもいない。あるいは、気づいても気にしていないのか。無傷のまま目の前を這う龍が、自分と本気で戦わないことに苛立ち、巨人の咆哮が空を裂いた。ついに、玉名市の手前まで辿り着いたイッシー。海まであと僅か。潮の香りが、わずかに鼻腔をかすめる……

 かすかな油断、気の緩み、その瞬間だった。突如として、風が裂けた……。

 これまでただ拳を振るい、足で踏みつける単純な攻撃のみだった弥五郎太が……動いた。

 それまでの重々しい動作からは想像もつかない、猛獣のような速度で。

 「ダッシュ……!?」              

 観測班の一人が声を上げた瞬間には、すでに遅かった。地響きを立てて加速した巨人は、目の前の大海龍へと一直線に突進していた。まるで山そのものが動いたかのような圧倒的な質量と勢い。その体躯からは考えられない鋭い突進……タックル!

 イッシーが身を翻す間もなかった。一瞬の油断……それが命取りとなる。

 ドォォンッッッ!!

 大気を押しのける衝突音が鳴り響き、イッシーの巨体が弾き飛ぶ。そのまま胴体をがっしりと抱え込まれ、地面に叩きつけられる。その力は、まさに万力のようだった。

 「……ッグゥゥゥ……!」

 イッシーが呻く。弥五郎太は容赦がなかった。抱え上げると、締め上げたまま、イッシーを地面に叩きつける。

 ……一度……二度……三度、四度……。何度叩きつけられたか、画面越しに見ている防衛隊員たちの顔から、血の気が引いていた。砂煙の中、イッシーの巨体がぐったりと力を失ってゆく……頭部に深い傷。口元からは血が流れ、さらに苦しそうな息が漏れている。脳が揺さぶられ、意識が飛びかけていた。

 「イッシーを援護しろ!戦車部隊、全力で砲撃を!」

 戦車隊がつぎつぎに砲撃を繰り出すが、弥五郎太はその巨体でその攻撃をものともしなかった。逆に、弥五郎太の蹴り上げや踏みつけが戦車を一蹴し、つぎつぎに大破していく。

 空では戦闘機がミサイルを発射し、弥五郎太の頭部を狙う。だが、弥五郎太はその巨大な腕を大きく広げ、まるで虫を追い払うように戦闘機を叩き落とす。そして、再び瀕死のイッシーの首元を掴み、思いっきり拳を見舞った。何度も、何度も……その度に大地が揺れ土埃が舞い上がる。

 「あぁ……もう駄目だ……イッシーが。」

 中継を見ていた対策本部の面々の間に絶望の空気が広がってゆく。最後に弥五郎太はイッシーの体を有明海まで引きずって行き、「死ぬなら海で死ね」と言わんばかりに持ち上げ、、海へ向かって全力で投げつけた。イッシーの巨体は宙を舞い、海面に叩きつけられ、大きな水飛沫があがる。そして、そのままイッシーは二度と浮上してくることはなかった……。

 勝利の咆哮をあげる弥五郎太。大巨人も疲れと負った傷を癒やすためか、ゆっくりと歩き去り、有明海へと消えて行った……。

 見守っていた東京の対策本部で稗畑教授が語る。

 「弥五郎太は傷ついている。あれほどの戦闘をすれば休息が必要だろう。その間に、こちらも対策を立て直す必要があるでしょう」

 その言葉は冷静でありながらも、どこか緊張感をはらんでいた。

 一方、報告を受けた友梨奈とすみれは熊本のチブサン古墳と英彦山へ向かう準備を急いでいた。

 「すみれさん、豊前坊を目覚めさせる鍵はあなたが握っているのよ。」

 友梨奈の言葉に、すみれは小さく頷いた。

 「怖くてもやるしかないんですよね。私も」

 彼女の目には、覚悟の光が宿り始めていた。

         第五章

 熊本県菊池市のチブサン古墳。丘の上に静かに佇む古墳は、澄んだ空気の中でその全容を現していた。古墳としては小規模だが、友梨奈はその中に眠る謎に心を奪われていた。 

 「ここに何かが隠されている……。」

 薄暗い石室の中、友梨奈は手にした懐中電灯で壁を照らしながら、奥へと足を進めた。

 石棺があるはずの場所には、ただ広がる空間。そして、壁や天井にはびっしりと描かれた無数の人々の姿。古代の人々が天を仰ぎ、祈りを捧げる様子が圧倒的な密度で刻まれていた。祈りの先には弥五郎太とは違う巨人の姿が描かれている。

 「ここは……墓じゃない……。」

 友梨奈は震える声で呟いた。

 「この場所は、九州全土の平和を願うための祭祀場だったんだ。祈りそのものが、この古墳の本質……。」

 その瞬間、友梨奈は全てを悟った。巨人 

 「みそ五郎左衛門」を目覚めさせる鍵は、この祈りにあると。

 友梨奈は掴んだ情報を伝えるため、急ぎ東京の対策本部に連絡を取った。

 「教授、九州で、一人でも多くの住人たちに一斉に祈りをささげてもらう必要があります。日時と場所を指定して、行政、各報道機関を通じて呼びかけをお願いします。」

 電話の向こうで稗畑の声が響いた。

 「わかった。それならば、私の方から対策本部を通してTV局を所管する総務省や新聞社等の各マスコミに働きかけてもらおう。よし、すぐに準備に取り掛かるよ。」

 友梨奈は安堵の息を漏らし、みそ五郎左衛門が眠る、長崎県南島原市・雲仙の高岩山へと急いだ。

 ……福岡県添田町。英彦山の麓に位置する高添神社の社務所では、宮脇すみれが祖父の宮脇一臣(みやわきがずおみ)と対峙していた。

 「……豊前坊を目覚めさせたいじゃと……本気でそう言うのか?すみれ……」

 一臣は深い皺が刻まれた顔に、険しい表情を浮かべていた。すみれは小さく頷いた。

 「お爺さま、九州を、この地の人々を守るためです。あの巨人……弥五郎太に立ち向かえる存在が必要なんです。」

 一臣はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

 「すみれ、巫女になる覚悟はあるのか?」

 「……覚悟?」

 「豊前坊の巫女になるということは、単に儀式を行うだけではないんじゃ。豊前坊と運命を共にするということだ。」

 すみれは困惑した表情を浮かべた。

「運命を共にするって……一体、どういうことですか?」

 一臣は目を細め、低い声で語った。

 「豊前坊が傷つけば、お前も傷を負う。そして、豊前坊が命を落とせば……すみれ、お前も死ぬのだ……。」

 その言葉はすみれの心に鋭く突き刺さる。 

 今度はすみれがしばらく沈黙する番だった。彼女は震える手で膝を握りしめたが、次第に顔を上げて一臣を見据えた。

 「じいちゃん、それでも……私はやりたい。故郷の人々を護りたい。私にしかできないことがあるなら……命をかけてでも。」

 一臣はすみれの目をじっと見つめた後、静かに深く頷いた。

 「その覚悟があるなら……行け、すみれ!豊前坊の巫女として。」

 東京の首相官邸に儲けられた緊急対策本部では、円谷英一(つぶらやえいいち)総理が閣僚たちを前に声を張り上げていた。

 「現在、九州の住民避難は順調だ。死者及び負傷者も最小限で澄んでいる。しかし、弥五郎太を再び迎え撃つ準備が必要だ。」

 稗畑教授が進言する。

 「巨人に対抗するには、防衛隊の協力が不可欠です。中国地方や関西圏からの追加の戦力を九州へ移動させることは出来ませんか?」

 「それは教授、我が国の防衛力と人員を考えたら、それは無理な話だよ。」

 ある閣僚が声を荒げると防衛庁長官の中島博信(なかじまひろのぶ)が静かに口を挟む。

 「よろしいでしょうか。私も、稗畑教授の提案に賛成です。九州を、この日本を守るために、一時的な措置でしょう。どうでしょうか。円谷総理?」

 議論は紛糾したが、最終的には円谷総理が裁量を下した。

 「閣議決定をする。すべての可能な戦力を九州に投入せよ。戦後から約20年今回の災禍が我が国の分水嶺になるだろう。」

 その日、九州全域で大勢の人々の祈りが捧げられた。人々の尊い平和への祈りは光の筋となって、雲仙・高岩山上空に集まり山頂に降り注ぐ、見守っていた友梨奈が固唾を呑んでその光景を見つめている。しばらくすると高岩山が激しく震え始める。そして、山頂の地面から巨大な岩のような腕が突き出された。

 「五郎左衛門が……目覚めた……!」

 同時に英彦山でも、すみれが豊前坊を目覚めさせる儀式を執り行っていた。冷水で沐浴して、その身を清め、巫女装束に着替え、神道の祝詞を読み上げた。上空に突如として雷雲が発生し、高岩山が稲光に照らされる。山中の岩が崩れ落ち、天狗杉といわれる大木の下から身の丈15メートルもの大天狗がその姿を現した。

 「これが大天狗・豊前坊……。」

 すみれはその山伏に似た偉容を前に、改めて覚悟を胸に刻んだ。

         第六章

 東京の対策本部の会議室には、重苦しい空気が、漂っていた。大型スクリーンには九州各地の最新映像が映し出されている。避難を終えた住人たちの安堵と不安の入り混じった表情、防衛隊の部隊移動の様子、そして、次の戦い地になるであろう・福岡に集結しつつある戦艦、装甲車や戦車の姿。現在の有明海。そして北九州の門司港に異彩を放つ2隻の大型潜水艦が映し出された。浮上航行したままの黒光りした船体に日の丸国旗と旭日旗、さらには誇らしげに星条旗の旗が掲げられている。それを見た会議室の閣僚たちからどよめきが起こった。円谷総理はゆっくりと立ち上がり、深い皺の刻まれた額に手をやりながら、視線を会議室の閣僚たちに向けた。

 「同盟国であるアメリカに協力を要請した。そのためには超法規的措置を取らざるを得ないと判断しての行動を取った。」

 総理の一言に、会議室がざわめき閣僚たちは口々に反論を始めた。

 「法律を無視するとなれば、国民の反感を買い、野党に攻撃されますぞ……。」

 「国会の承認なしで外国軍を呼び込むのは後々問題に……。」

 その声を遮るように、防衛庁長官の中島が一歩前に出てきて口を開く。

 「問題があるのは百も承知です。しかし、これは国家存亡の危機です。ご覧になったでしょう?巨人『大仁弥五郎太』の脅威はもはや一国で対処できる範囲を超えている。」

 さらに稗畑教授が力強く言葉を重ねた。

 「弥五郎太はこれまでの観察から、ただの破壊ではなく、人口密集地や工業地帯を狙う可能性が高い。次に出現した際は、必ずここ、九州の地で決着をつけねばなりません。」

 円谷総理は彼らの発言を静かに聞いていたが、毅然とした態度で口を開いた。

 「私が責任を負う。映像に映った通り、同盟国アメリカ大統領との電話会談(ホットライン)で最新鋭の原子力潜水艦2隻を派遣する合意を得た。我が国を守るための必要な措置だ。」

 閣僚たちは原子力という単語に一瞬、言葉を失い沈黙したが、やがて頷き、総理の迅速な決断を支持する流れとなった。

 会議が落ち着きを取り戻した頃、稗畑教授がスクリーンに能古島の地図を映し出した。

 「弥五郎太との戦いの場を、福岡市の沖に浮かぶ能古島に設定するのはどうでしょう。島民の避難はすでに完了しています。ここであれば被害を最小限に抑えられます」

 中島長官が地図を見つめながら通信士官に問いかける。

 「防衛隊は能古島周辺に充分な戦力を展開できるか?あまり時間がないぞ。」

 「すでに呉港から新造戦艦が到着し、福岡市内の島を望む沿岸に戦車大隊が展開中。島にも機雷を設置し、増援部隊も集結中です。」

 そばで聞いていた円谷総理は短く頷いた。

 「では、能古島を最終決戦の場とする。速やかに準備を進めてくれ。」

 筑後平野で、友梨奈とすみれは久しぶりに顔を合わせた。五郎左衛門の太い体が山影を背に佇んでいる。その肩には、豊前坊が乗っていた。再会の挨拶もそこそこにすみれが口を開いた。

 「豊前坊に念を送りました。『みそ五郎左衛門と一緒に能古島に向かって』って。」

 友梨奈はその言葉に感嘆しながら頷いた。

 豊前坊と心を通わせることが出来るなんて、素晴らしいわ。2体が力を合わせることで、九州を守る希望が生まれる。」

 五郎左衛門はゆっくりと巨大な足を動かし始めた。豊前坊の体が微かに揺れながら、その広い肩幅の上で安定した姿勢を保っている。

 初めて会ったにも関わらず、2体の巨人はまるで意思を共有しているかのようだった。その歩みは重く、地面を揺らしながら着実に能古島へと向かっていた。

 その頃、有明海では防衛隊の監視部隊が目を見張る光景に直面していた。突如として、 海が荒れだし、直径数十メートルの渦が発生。 

 荒れ狂う波の中から、弥五郎太が姿を現したのだ。

 「……そんな、なんてことだ……。」

 双眼鏡を覗いた隊員の声が震えた。弥五郎太の体は以前よりも一回り、いや二回りも大きくなっていた。上背は変わらないが厚みを増した腕や脚、盛りあがった胸部は、まるで有明海の生物を喰らい尽くして成長したかのようだった。その巨体が険しい表情で、福岡方面をじっと見つめると、身を翻し、再び有明海へと消えて行った……。

 「……みそ五郎左衛門と豊前坊の存在に気づいているのか……?」

 隊員たちはその異様な視線に恐怖を覚えながらも、迅速に本部に報告を上げた。

 数時間後、能古島沿岸に設置しされた機雷が次々と爆発音を響かせた。海中からゆっくりと巨大な頭部が現れ、巨体が海面を割った。

 弥五郎太だ。その姿は、待ち構えていた五郎左衛門と豊前坊の目に映った。友梨奈とすみれは、安全を考慮し、島を望む福岡市内の小戸神社からその光景を見守っていた。しかし、弥五郎太の巨体を始めて目の当たりにした二人の顔が青ざめ、友梨奈が絞り出すように呟いた。

 「大きさが……全然違うじゃない……。」

 「これ、勝てるんでしょうか……?」

 すみれの声も震えていた。五郎左衛門は弥五郎太の胸の辺り、豊前坊に至っては膝下ほどの大きさだ。弥五郎太が一歩を踏み出すたびに、地響きが島を震わせた。五郎左衛門と

豊前坊は臨戦態勢を取り、三巨人の対峙の構図が完成した。九州、そして日本の運命をかけた巨人たちの戦いが今始まろうとしている。

        第六章

 能古島の空気が張り詰める中、対峙する3体が雄叫びを上げた。島全体を震わせる轟音とともに、弥五郎太と五郎左衛門が激しくぶつかり合い、豊前坊は翼を広げる。弥五郎太はその巨体を活かして、正面からの圧倒的な打撃攻撃で五郎左衛門をねじ伏せようとする。 

 拳を振り上げ、雷のごとき殴打を繰り出し、大地が割れんばかりの蹴りを放つ。海岸の近くでの激突により、波が荒れ狂い、打ち上げられた魚たちが周囲に散らばって跳ねる。一方で、手足の短いずんぐりとした体型の五郎左衛門は、弥五郎太の重い攻撃を受けながらも腰を落とし、その太い二の腕で頭部を覆い防御に徹する。体格では敵わなくとも、その打たれ強さとかたい防御、そして持久力にかけては絶対の自信をを持つ巨人だ。弥五郎太の突きをかわしながらその体に組みつき、投げ技に持ち込もうとする。五郎左衛門の体当たりは重量感に満ち、弥五郎太の巨体を僅かに揺らした。

 その上空、高速で飛び回る豊前坊が戦いの鍵を握っていた。翼を広げ、旋風を巻き起こしながら飛び回るその姿は、弥五郎太にとって捉え難い標的だ。豊前坊はまるで戦闘機のような速度で変幻自在に動きながら、狙い済まして弥五郎太の頭部や頸動脈、頸椎に錫杖を振り下ろしていく。例えるならば、弥五郎太は強烈なゲンコツを連続でもらい続けるようなものだろう……。

 ガガァン!

 高速で回転しながらの豊前坊の打ち込みが弥五郎太の後頭部を直撃する。弥五郎太が痛みと怒りの混じった咆哮を上げた。巨大な拳が空を切り、豊前坊の翼をかすめるが、すでに大天狗は別の方向に移動している。その錫杖の攻撃は、弥五郎太の防御を、耐久力を徐々に削ってゆく。あまりの攻撃精度に弥五郎太は一瞬、脳震盪を起こす。その隙を五郎左衛門が逃さず脚を引っ掛けて、弥五郎太の腰にがっぷりと腕を回して浴びせ倒しを試みる。

 小戸神社から決戦の様子を見守る友梨奈とすみれは、その壮絶な光景に息を呑んでいた。

 「信じられない。あんな巨体を投げ飛ばそうとするなんて……。でも、このままでは……状況を変えないと。連携がうまくいっているうちに。弥五郎太もまだ何かを隠しているはず。」

 五郎左衛門の必死の浴びせ倒しでとうとう地面に倒れる弥五郎太。その巨体が砂浜に派手に転倒する音が島全体に響き渡る。五郎左衛門は友梨奈の声に応じるように、弥五郎太の胸に馬乗りになり、拳を振り下ろす。拳・掌底・鉄槌・手刀が何度も弥五郎太の顔に打ち込まれ、そのたびに地響きが響く。

 「ガアアアアッ!」

 弥五郎太が苦悶の咆哮を上げるが、五郎左衛門は容赦しない。左腕は右足で踏みつけ、右腕は左膝で固定し、動きを封じ込めた状態で、次々と打撃を叩き込む。そこへ上空から降下してきた豊前坊が、弥五郎太の頭髪を力強く掴んで固定し、五郎左衛門の攻撃を援護する。弥五郎太の顔がみるみる腫れ上がっていく。まさかの形勢逆転に対策本部でも人々の間で、確かな勝利への希望が芽生え始める。

 「五郎左衛門たちが優勢だ。このままいけば勝てるんじゃないか!?」

 「巨人同士の連携が効いている。勝てる、勝てるぞ……。このまま押し切れる!」

 だがその希望の中に、友梨奈とすみれ、稗畑の表情は曇っていた。

 「……まだ終わらない。弥五郎太がこれで終わるはずがない……何かが起こる。」

 稗畑教授は眉をひそめて呟いた。彼はこれまでの弥五郎太を観察してきた経験から、この巨人の脅威を痛感していた。友梨奈も唇を噛みしめていた。彼女の視線は、倒され一方的に殴られ続ける弥五郎太に向けられている。

 その巨体の揺れが、徐々に不気味なリズムを刻んでいるように見えたからだった。五郎左衛門が弥五郎太の胸に馬乗りになり、その巨体を叩き続ける。豊前坊も頭髪を掴んだまま加勢していた。弥五郎太は次第に動かなくなっていく……しかし、その瞬間だった。

 「グァァァァァァッ」

 弥五郎太の叫びと同時に、その頭髪がまるで剣山のように逆立ち、瞬く間にヤマアラシ状に変化した。鋭利な針のような毛先が四方八方へと伸び、豊前坊の体を貫いた。豊前坊が大量に出血し、もがき苦しむ中、小戸神社で見守っていたすみれが突然、大量に吐血し、

その場に崩れ落ちた。

 「すみれ!」

 友梨奈が叫び、彼女を抱きかかえる。神社が一気に緊迫した空気に包まれる。

 「だ、だいじょうぶです……。豊前坊だって、まだ……戦えますから……。」

 だが、豊前坊の苦悶の表情を見た五郎左衛門は、ほんの一瞬、攻撃の手を止めてしまった。その隙を逃さず、弥五郎太が全身の力を込めて腰を跳ね上げる。

 「ウォ!」

 あまりの勢いに、五郎左衛門は弥五郎太の上から滑り落ち、砂浜に転がった。巨体を揺らしながら立ち上がり、体勢を立て直した弥五郎太。対する五郎左衛門も深い呼吸を吐きつつ低姿勢で構えた。弥五郎太が咆哮を上げ

、五郎左衛門が再び突撃を試みる。狙いは弥五郎太の足だった。五郎左衛門の体当たりが弥五郎太を捕らえるその刹那、弥五郎太が右膝を鋭く突き出す。その重い膝蹴りが五郎左衛門の顔面に直撃し、曲がった鼻から出血しながら大きく後方へ吹き飛ばされた五郎左衛門は砂浜に背中を強打し、仰向けに転倒する。弥五郎太がその巨体で五郎左衛門を横から押さえ込むようにのしかかり、拳や鉄槌を次々と振り下ろす。

 「……まずいですぞ、やはり状況が変わった。」

 稗畑が声を震わせる。その時、対策室に中島長官の力強い声が響く。

 「防衛隊攻撃開始!門司港の米原潜にも急いで攻撃指示の打電を送れ!」

 沿岸の戦車部隊が動き出し、洋上に展開する軍艦の主砲が次々に火を吹いた。砲弾が弥五郎太の巨体に命中し、炸裂音が島全体に轟く。その直後、海中で潜航待機していた2隻の米原子力潜水艦の前部射出口からミサイルが発射される。バブルを出しながら水中を進んだミサイルは弥五郎太の体に直撃し、激しい爆発を引き起こした。弥五郎太の体の表面が焼け焦げ、初めて苦悶の表情を浮かべる。

 しかし、それでも弥五郎太はその巨体を引きずり、能古島にそびえる山影へと逃れた。

 直撃を避けたいのだろう。島にある数百メートル級の連なる山々に、隠れながら防衛隊の戦車や軍艦・米原潜の攻撃をかわしていく弥五郎太に対し、致命傷を免れた豊前坊が上空から襲いかかる。大天狗の両腕に握られていたのは、古の神具・芭蕉扇だった。豊前坊が体ほどもある扇を両手で振ると、凄まじい突風と竜巻が弥五郎太を包み込み、その巨体を激しく揺さぶる。弥五郎太を山影から押し出す作戦のようだった。耐える弥五郎太。

 まさにその時だった。ものすごい勢いで海中から何かが飛び出した……!

 それは阿蘇で敗北し、有明海に沈んだ池田湖の大海龍、イッシーだった。絶命したと思われていたイッシーは生きていた!イッシーは全力で、いや、己の生命力を振り絞り、弥五郎太に巻きついて締め上げる。その攻防の隙を逃さず五郎左衛門が後方から弥五郎太の首に抱きつき、顎を開かせるように締め上げる左腕で顎を固め右手で頭部を掴み、仰け反らせるように後方に引いていく……豊前坊もさらに芭蕉扇を振るう。巨人たちと巨龍の抵抗に遭い山影から出てしまった弥五郎太……。

 それを見ていた中島長官の号令が再び対策本部内に響く。

 「いまだ!全防衛隊は攻撃を胴体に集中!米原潜は頭部と口腔内へミサイルを撃ち込め!これで決着をつけるのだ!」

 全員が死力を尽くす中、弥五郎太が最後の抵抗を見せ、咆哮を上げる。だが、防衛隊の砲撃が直撃し、その巨体の動きが次第に鈍っていった……

 門司港で急速に浮上した2隻の潜水艦。上部ハッチが開き、2発の巡航ミサイルが発射される。1発は上空から頭部へ、もう1発は海面すれすれを飛翔し、五郎左衛門がこじ開けている口腔内へ飛び込む。その瞬間、閃光が周囲を包んだかと思えば大爆発を起こし、巨大な煙雲が上がる……しばらくして周辺を覆う煙がはれると、下顎部だけを残し頭部を失った巨体が力なく崩れ落ちる。絶命した弥五郎太の体は次第に石像のように硬化しやがてボロボロと崩れていった。一方で、イッシーの体は黄金色に輝き、天へと昇る光の粒子となって消えて行った。小戸神社に戻った五郎左衛門と豊前坊の姿は壮絶。全身を針のような毛髪に貫かれた豊前坊は右目を失い、血まみれ。

 五郎左衛門は全身に擦過傷、右前腕と左上半身に重度の火傷を負い、左腕はあらぬ方向へ向いていた。友梨奈はすみれに肩を貸しながら、2体の巨神に深々と感謝の頭を垂れた。

 すみれの方も両手を合わせお礼の祝詞をあげる。対策本部と戦闘に参加した防衛隊員、米原潜の乗務員たちもみそ五郎左衛門と大天狗・豊前坊、そして天に帰るイッシーに敬礼を捧げた。2体は友梨奈とすみれを見つめるとわずかに頷き、静かにその場から去って行く。

 「帰るのね……」

 「ええ、それぞれの地に……」

 すみれも小さく囁いた。

         終章

 能古島での戦いが終結して数日がたった。福岡市に設置された臨時対策本部では、政府関係者、防衛隊関係者、九州各県の行政トップたちが一堂に会し、今回の戦いの総括と反省、そしてこれからの日本がとるべき道について話し合っていた。

 「結果として、九州の壊滅は防げた。しかし、我々が払った代償も決して小さくはない。鹿児島、熊本、福岡の損害は莫大だ。」

 円谷総理の低い、しゃがれた声が響く。戦車と戦闘機の損失、九州管内における県民の賠償問題、漁業の損失と環境被害等……どれをとっても、事態は容易には収束しない。中島防衛庁長官は、重く沈んだ口調で意見を述べる。それは誰に向けたとも知れぬ、魂の奥から漏れ出した問いだった。

 「……防衛とは、何なのか。我々は本当に、この国と国民の生命を守るためだけに戦っているのか?それとも……ただ戦い続けることだけが、目的になっているのではないか?」

 言葉が空気を凍らせた。静まり返った会議室。居並ぶ者たちは、皆、次の言葉を探しながらも、何も言えなかった。誰一人として、彼の問いに即答できなかったのである。重苦しい沈黙だけが、ゆっくりとその場を支配していた。そんな中、オブザーバー席に控えていた稗畑教授が、そっと目を閉じ、やがて老教授は静かに、しかし確かな声で語り始める。

 「……今回の戦いは、単なる怪異との衝突ではありませんでした……我々が直面したのは、"神の怒り"そのものだったのかもしれません。我が国は、あまりにも急ぎすぎたのです。経済成長という名のもとに、自然を破壊し、森を汚し、川を死なせた。九州だけではない。全国各地で、人による公害が今も進行している……」

 教授の目は、誰を責めるでもなく、ただ遠くを見つめていた。

 「弥五郎太は、確かに滅びました。しかし……第二、第三の弥五郎太が、いつどこに現れてもおかしくはありません。それは我々人間のあり方にかかっているのです。」

 張り詰めていた会議室の空気が、重さを増した。誰もが息を呑み次の言葉を探した。けれど、それを声に出すものはいなかった。稗畑の言葉は、ただの警鐘ではなかった。それは、次があるのだという、静かで確かな予言でもあったのだ。

 会議の末席に座っていた円谷総理は、そっと目を閉じた。そして、額に手を添え、長く、深く考え込んでいた。

 「これからの日本はどうあるべきか、いや日本人という存在がどうあるべきか……考えなければならない時が来たのかもしれんな。」

 誰もが総理の言葉の重みを感じながら、会議は幕を閉じた。この国の未来が、静かに揺れているのを感じながら……

 福岡県添田町・高添神社の境内。鳥居をくぐると、冷たい風を感じる。山間の町に冬の気配が近づいていた。友梨奈とすみれは静かに祈りを捧げていた。

 「……どうか、安らかにお休みください。」

 続いてすみれが祝詞を上げると、広い神社の境内の空気がわずかに震えた気がした。   

 五郎左衛門と豊前坊は、それぞれの地へ戻り、再び眠りについた。しかし、彼らの傷跡が完全に癒えることはない。あの壮絶な戦いが刻んだものは、肉体だけでなく、魂そのものにも深く残っているのだろう。豊前坊の巫女として、彼と共に戦ったすみれもまた、何かを感じているようだった。

 「豊前坊……」

 その名を呼ぶ声に、わずかな寂しさが滲む。

 「……ありがとう、みそ五郎左衛門。」

 友梨奈が続いて呟く。

 博多駅のホーム。すみれは荷物を持ち、列車の到着を待っていた。

 「……東京に戻るのね。」

 「はい。ここでの務めは終わりましたから。とりあえず大学に戻ります。友梨奈先輩。」

 そう言って微笑むすみれだったが、その瞳には、何か強い揺らぎがあった。

 「とりあえず?」

 「小戸神社で別れ際に豊前坊に言われました。『我々の力は尽きた。我と五郎左衛門はもう、目覚めることもあるまい。故に我の巫女として命がけで共に戦ったお主に我の霊力を授けよう。時が来ればその力は顕現するはず。だから娘よ!精進を積んでおくのだぞ』と。」

 すみれの表情には、決意の色が浮かんでいた。すみれは続けて語る。

 「その力が目覚めるのは、おそらく1年半後、私が成人した時だろうと祖父が言っていました。だから、私は春には大学を辞めて、山梨の真言密教系の寺院で修行を始めます。」

 「それで……いいの?すみれ。」

 友梨奈の声には、驚きと迷いがあった。

 「はい、巫女になると決めた時から、この道が私の運命だったのでしょう。覚悟は決まっています。」

 すみれの微笑みは、どこまでも澄んでいた。

 友梨奈は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。列車がホームに入ってくる。

 「それじゃあ、行きますね」

 すみれはそう言って、列車へと乗り込んだ。

 「……気をつけてね。すみれ。」

 発車のベルが鳴る。すみれは窓越しに友梨奈を見つめ、最後にもう一度、微笑んだ。

 「先輩もお元気で。」

 列車がゆっくりと動き出す。友梨奈はその姿が見えなくなるまで、ホームに立ち尽くしていた。そして、自分の胸に渦巻く感情を静かに受け止めた。 

 それから一ヶ月後。篠宮友梨奈は久し振りの教壇に立っていた。黒板に文字を書きながら、避難先から戻ってきた生徒たちの顔を見渡す。日常は何事もなかったかのように流れている。しかし、それは決して「何も変わらなかった」わけでは無い。"彼女の中にはあの戦いの記憶が確かに刻まれている"。みそ五郎左衛門と豊前坊、そして弥五郎太。すみれとの出会いと別れ、彼女が語った豊前坊の遺した霊力のこと。

 「……これで終わりなのかな。」

 しかし、心の奥底では分かっていた。少なくとも宮脇すみれにとってはこれは「終わり」ではなく「始まり」なのだと……。彼女はチョークを握り直し、再び黒板に向かう。

 「では、今日の授業を始めます。」

 窓の外では、秋の陽光が優しく降り注いでいた。                完


 本作は創作の書き下ろし小説です。本作はフィクションであり、登場する地名、人物名、団体名など、現実のものとは関係ありません。

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