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桜の乙女は血を捧ぐ

作者: 汐屋キトリ

「寧衣さま。本日も尊きその血を、我らのためにお捧げくださいませ」


 木立こだち寧衣ねいの一日は、そう告げる侍女の一言から始まる。侍女は視線を合わせようともせず、盆に乗せた朝餉を部屋に置いて静かに戻って行った。


 米、豚の肝臓の煮付け、海藻と小松菜の汁。

 器いっぱいに盛られた滋養溢れる朝餉を残すことは許されないため、強引に胃に流し込んでいく。


 吐き気を堪えて起き上がり、一人衣に袖を通す。一等上質な紅の振袖は、“桜守さくらもり“の象徴だった。

 

 門番が会釈するのを横目に、寧衣は木立家の屋敷を出る。目指す先は、この村唯一の神社。


 最も重要な役職でありながら、外出中の彼女の近くには、付き従う者すらいない。

 その理由はただ一つ、村の者全てが彼女を監視しているに等しいからだった。紅の振袖は、何もせずともよく目立つ。


 鳥居を潜ってしばらく歩みを進めれば、淡い色の花を咲かせた大樹が見えてくる。

 これこそが、太陽を司っている氏神うじがみ様が宿る神桜かみざくら

 

 ”桜守”とは、この神桜を守る職のことである。

 これは木立家の娘が代々務めるものであり、今代の桜守である寧衣は、七つの頃からその任に就いていた。


 桜守の仕事は、毎日その血を神桜に吸わせることだけ。

 

 寧衣が懐から刃を取り出して腕に滑らせると、じわりと血が浮き上がってくる。

 玉のように膨らんだ赤色を、神桜の樹にそっと押し付ければ──途端、白の花弁が目にも眩しい紅に染まっていく。


 桜守の条件は二つ。

 一つ、二十に満たぬ娘であること。

 二つ、純潔であること。


 かといって二十になればお役御免、という単純な話でもない。今度は誰かと婚姻を結び、次世代の桜守となる娘を、可能な限り早く産むことを要求される。


(こんなものかしら)


 己の血を吸った神桜を見上げる。


 枝が風に揺られ、真っ赤な花弁が飛び散っていた。

 いくら散れど血を捧げ続ける限り、花弁が尽きることはない。ゆえに季節など関係はなく、神桜は一年中咲き誇っているのだった。


 長い袖に花びらが乗る。それを払い落としてくれる彼は、もうここには居ない。仕方なしに、袖を振って自分で払う。


(早く帰ってきて、佐霧さぎり……)


 心の中で呼んだのは、幼馴染の名前。

 この二年近く、何度こう呟いたか分からない。

 

 部屋に戻って振袖を適当に掛け、また寝転がる。

 まだ日は高い。差し込む日差しから目を背け、瞼を閉じてみれば、意識は溶けていく。


 (──明日には私……あなたの兄と、婚約させられてしまうのよ)





 神桜を管理するは神職の一族、鴻上こうがみ家。

 

 鴻上こうがみ佐霧さぎりはその次男であり、寧衣にとっては唯一気の許せる、同い年の幼馴染だった。


 村でも一際強い発言力を持つ鴻上家の息子ならば、幼い”桜守”の遊び相手に都合が良い。

 そんな大人の思惑により、引き合わされたのが始まりだった。しかし彼らの目論見以上に、二人はすぐに仲良くなる。


「さぎりっ! 二十になって、桜守をやめたらね……わたしのこと、お嫁さんにしてちょうだい!」

「……別にいいけど」

「ほんと? 約束ねっ!」


 交わしたのは、子ども同士の淡い口約束。

 しかし七歳の寧衣はそれを心の支えにし、肌を裂く痛みも我慢して、神桜に血を捧げ続けたのだった。


 月日は過ぎ、十五歳になったある朝のこと。


 障子窓から聞こえる「起きろ、寧衣」の声で目覚めた。

 部屋は三階にあるものの、忍び込むくらい佐霧にとっては容易い。眠い目を擦る寧衣に、彼はいつものように遊びの誘いを持ち込んでくる。

 

(うち)の地下に、書物庫を見つけたんだ」

「書物庫? そんなものが……」

「あぁ。鍵はくすねて型を取った。忍び込みに行かないか?」

「勿論!」


 多少の悪事と冒険の誘いに胸を躍らせ、寧衣は二つ返事をした。

 

 神社の内部には、部外者の立入りを禁じている場所も多く存在する。

 本来は鴻上家の当主しか入れないものの、「桜守本人と鴻上の息子なら、“部外者“じゃあないだろ」などというのが佐霧の主張だった。


 幼少期から大人に隠れて悪戯を繰り返していた二人にとっては、書物庫に忍び込むことなど造作もない。そこには、想像よりも遥かに膨大な本や巻物が、所狭しと並んでいた。


「素敵! 本がこんなに」

「……ここなら、桜守について何か分かるかもしれない」


 低い声で呟く佐霧に、寧衣は首を振る。


「ねえ、私なら大丈夫よ。血を捧げるのだってもう怖くない。それが慣習だもの」

人身御供ひとみごくうが慣習だなんて、ふざけてやがる。俺は必ず、他の道を探してみせる」


 自分の身を案じてくれる幼馴染に対して、嬉しさと、それ以上の申し訳なさが溢れてくる。


(佐霧は神職しんしょくである鴻上の人間……桜守の慣習を批判するだなんて、お父上に歯向かうも同然だというのに)


 自分のせいで、彼の立場が悪くなってしまったら?

 寧衣にとってそれは、血を流すよりよほど辛いことだった。


 俯いていると、ぽんと優しく頭を撫でられる。彼は、寧衣の不安も理解しているというように微笑んでいた。


「俺は好きでやってるだけだ。寧衣はただ、気になる本を見つけて、読んでいれば良い」


 佐霧が本を漁り始めたので、寧衣も近くの棚を眺め、その中から異国を舞台にした物語を手に取った。

 

 少年少女が悪霊を倒すために共に戦い旅をする、冒険譚。

 村から出ることを許されていない寧衣には眩しく、だからこそ興味の惹かれる物語だった。


 夢中になって本に齧り付いていると、いつの間にかあたりは薄暗くなっていた。天井の窓から夕陽が差し込んでいたことも気づかず、読み耽っていたらしい。


 ちらりと佐霧を見ると、彼は何冊も並べた本を睨みつけ、無言で読みこんでいるようだった。


 その時、外から大きな足音が近づいてくるのが聞こえた。


 佐霧は瞬時に顔を上げ、ぐるりと書物庫の中を見回す。隠れられそうな場所はないと悟るやいなや、読んでいた本を目立たない隅に隠した。


 数秒もしないうちに、扉が激しく叩かれる。


「出てこいお前ら! そこに居るんだろ!?」


 佐霧は寧衣を後ろに下がらせ、内側のかんぬきを引いた。


 そこに立っていたのは、鬼のような形相をした男。早雲(そううん)──佐霧の三つ年上の兄であり、鴻上家の長男だった。


「何をしている、桜守ッ!」


 寧衣を睨みつけてきた早雲の目は、ぎょろりと血走っていた。顔色は悪く、差し向けてきた指先は震えているようだった。

 

「兄上、どうしたんだ。俺と寧衣は本を読んでいただけで──」

「今日は血を捧げなかったのか!?」


 寧衣ははっとする。

 午前中に書物庫に入ってから本に夢中で、すっかり仕事を忘れていたことに気づいたのだ。普段は昼頃に神桜のもとへ行っていたものの、既に夕方になっていた。


「──神桜が枯れた、お前のせいだ!」


(神桜が?)


 寧衣の身体から、さあっと血の気が引いていく。

 強引に押し入って来た早雲は寧衣を掴み、書物庫から引き摺り出した。


「やめろ、兄上!」

「五月蝿い、鴻上の恥晒しが! 貴様はどう落とし前をつけるつもりだ!」


 実弟を睨みつけた早雲は寧衣を担ぎ、外へと無理矢理連れ出した。

 幸か不幸か、境内にある神桜はすぐ近く。既に樹の前には、大勢の人間が集まっていた。


「何してるんだ桜守……!」

「この村を滅ぼしたいのか!?」

 

 現れた寧衣に視線が集まり、罵詈雑言、そして石が投げられる。


「お前ら……! やめろ!」


 背後から聞こえた佐霧の声に、どうにか振り向く。彼は何人もの大人の男たちに、取り押さえられていた。


「兄上! 寧衣から手を離せ!」

 

 寧衣は神桜の前に放り投げられる。


 袖が捲られ、傷だらけの腕があらわになった。

 生々しい傷跡に一瞬人々は静まり返ったものの、次の瞬間には、さらに勢いを増した怒号が飛んできた。


「今すぐ血を捧げるんだ!」

「早く!」


 早雲は懐から短刀を取り出す。その目が据わっているのを見て、背筋に冷たいものが走った。


「自分で……自分で、やりますから……!」

「必要ない」


 寧衣の主張も虚しく、早雲は刃を突き立てる。そのまま過去の傷にそって横に引けば、赤い血が吹き出した。


「痛ッ……いや!」

「黙れ!」


 寧衣の腕が、神桜にぐいっと押し付けられる。

 傷口を樹に擦り付けるように、ぐりぐりと上から力が込められた。激しい痛みとともに、どくどくと肌の下が脈打っていく。


(痛い、痛い、痛い……!)


 十年近く血を捧げ続けている寧衣は、身を切る痛みには慣れているつもりだった。しかし常より余程深く刃を立てられてしまえば、その痛みは到底耐えられるものではなくなった。


 血を吸った神桜の樹は、地面を大きく鳴らす。

 ──それは氏神の、歓喜の声だった。

 群衆は伏せて耳を塞ぐも直後、一斉に沸き立つ。


「見ろ! 神桜がまた……咲き始めた!」


 視界の端、枝の先から蕾が綻び、花をつけるのが見えた。

 ──血と同じ、真っ赤な花が。


 段々と寧衣の痛みが遠ざかっていく。血を失いすぎたのだとぼんやり理解した。


「寧衣!」


 己の名前を叫ぶ、引き攣れた声が聞こえた。

 顔だけ動かすと、地面に押さえつけられながら、怒りと悔しさを露わにした幼馴染が見えた。


(佐霧……)


 寧衣の目の前がふっと真っ暗になり、遅れて意識も失った。



「──寧衣ねい


 聞き慣れた声が耳に触れ、意識が浮上する。

 ゆっくりと瞼を開けると、暗闇の中……覆い被さるように床に手をついている佐霧さぎりと、目があった。


「さぎ……むぐっ!」

「静かに」


 手のひらで口を押さえられる。


(何、何が起こっているの!?)


 薄暗い闇の中、月明かりが隙間から差し込んでいた。

 動揺しながらも静かにしていると、彼の手のひらが漸く口元から剥がれる。


(今は……夜? そしてここは、私の部屋?)


 そうだ。書物庫で過ごしていたら桜守の仕事を忘れ、彼の兄に無理やり肌を切りつけられたのだった。


「痛っ……」


 状況を把握した途端、腕の激しい痛みがぶり返してくる。

 腕には包帯が巻かれていたが、布の上からでも分かるほど赤黒く滲んでいた。どくどくと体内に打ち響く音から、まだ血が止まっていないのが分かった。


「酷い傷だ」

 

 包帯を見つめる彼の声は、聞いたこともないくらい暗かった。

 そっと腕が持ち上げられる。


「寧衣」

「何を……」

 

 彼は包帯の上から、傷に口付けた。

 

「──俺と共に、呪われる覚悟はあるか」


 彼の瞳は仄暗い光を帯びていた。


「どういう、意味」

「今宵、お前の花を散らすと言っている」


 放たれた言葉の衝撃に、己を蝕んでいた痛みが一瞬飛ぶ。

 傷口よりも速く大きく、心臓の鼓動が鳴り始めた。口をぱくぱくとさせることしかできない。


(花を、散らすって……!)


「もっと直接的に言わないと分からないか? 今から、お前の純潔を奪う」

「ど、どうして」


 尋ねた直後、彼がこんなことを言い出した理由に思い至る。


 桜守となる条件は二つ。

 一つ、二十に満たぬ娘であること。

 二つ、()()であること。


「まさか……」

「桜守など辞めてしまえばいい」


 低い声には、怒りが滲んでいた。

 彼は二つ目の条件を破らせることで、寧衣から桜守の資格を奪おうとしているのだ。


「ねぇ……言ったでしょう? 私は、大丈夫よ」

「大丈夫なわけあるか。あんな非道な真似をされて……いや、」


 彼はそこで言葉を止め、自嘲するように笑った。


「非道な真似は、俺も同じか」


 いつの間にか襟に忍び込んでいた佐霧の指先が引かれ、月明かりの下、白い鎖骨が露わになる。

 彼はその窪みをゆっくりとなぞった。


「教えてくれ。今でもお前に好かれている、そう思っているのは……俺の自惚れか?」


 寧衣の鼓動が一際大きく跳ねる。

 

『桜守のお仕事が終わったらね……わたしのこと、お嫁さんにしてちょうだい!』


 幼い口約束は、恋とは何か気づくより早く結んだものだった。


 桜守はその身を犠牲にする分、特別な存在として扱われる。血を捧げる際の正装として、最も上等な振袖が与えられるし、精のつく食べ物があれば優先的に回される。

 

 血生臭い実態を知らない者からは、やっかまれることも多々あった。そしてそんな時にはいつだって、佐霧が守ってくれた。

 

 振袖を汚した時は、一緒に怒られてくれた。苦手な牛の肝臓は、内緒で代わりに食べてくれた。思えば世話になってばかりだったと思う。

 佐霧はいつだって嫌な顔ひとつせず、寧衣の頭を撫でてくれたのだ。

 

(私は佐霧が好き。それは、ずっと昔から)

 

 彼が同じ気持ちを抱いてくれているかは分からない。けれど少なくとも、幼馴染として大切にされている自覚はあった。


「私は……」


 声が震える。目を伏せていても、じっと見られているのが分かった。

 

 彼の問いを肯定してしまえば、長年あたためた想いを告げてしまえば、今夜全てが変わる。



 背負ってきた役目から解放され、愛する人と結ばれる。それはどんなに幸せなことだろう?


 しかし寧衣は、ゆっくりと首を振る。

 

「私が身を……この血を捧げるべきは今、氏神様だけよ」


 『好きじゃないわ』とは、嘘でも言えなかった。


 佐霧に身を任せれば、自由の身になれる。

 だけどそれは彼に罪を押し付けることであり……過酷な桜守の仕事を、他の誰か押し付けることでもある。


 自分が降りれば、木立の血を引く遠縁の少女の誰かが、新たな桜守にされることは分かりきっていた。

 該当する親戚で最も年齢が高い子ですら、確かまだ十歳ほど。五つも年下の女の子に『代わりに明日から血を流すように』とは、言えるわけもなかった。


「お前は、七つの頃から血を捧げている。もう十分だろ」

「それでも……少なくとも二十になるまでは、私がやらなくては」

「その任期を終えれば、次の桜守を一刻も早く産めと急かされる。永久に安寧は訪れない」

「だけど! 二十になったら、その時は……」


 ──佐霧が私を貰ってちょうだい。

 しかしその言葉は遮られる。


「兄上──早雲そううんが、お前を娶ると宣言したらしい」

「え……?」

「あの衆人下で傷をつけた責任を取る、十八になったら正式に婚約を結ぶと」


 彼は忌々しげに吐き捨てる。

 

「あいつは既に、何人もの女を囲っている。流石に二十までは、手出しこそしないだろうが……全ては権威と体裁のために過ぎない」


 鋭い瞳に射抜かれる。重苦しいほどの、真剣な眼差しだった。


「今ここで選べ。奴に飼い殺しにされるか、俺と共に罪を背負うか」


 突然告げられた膨大な情報、そして急に迫られた選択に、寧衣の頭が真っ白になる。天秤の掛け方すら分からず、指先を震わせる。

 

 時計の長針は、何周しただろうか。

 永遠にも思えるほどの沈黙を破ったのは彼の方だった。


「……酷なことを言った。忘れてくれ」

 

 先ほどまでの不穏な色はすでに、彼の瞳から消えていた。ただ、震える幼馴染の少女の髪を撫でる。

 いつだって寧衣を安心させてくれる手。

 かつて寧衣を昼夜と外へ連れ出してくれたその悪戯な手は、いつの間にか少し骨ばった男の手へと変わっていたことに気づく。


 そして、ゆっくりと佐霧の顔が近づき──額に柔らかいものが一瞬触れ、離れた。


「ひぁっ……!?」

 

 突然のことに一瞬、息が止まった。彼の纏う羽織が顔に触れ、視界がぐるぐると回る。その意識の外側で、小さく声が聞こえた気がした。


「──呪われるのは、俺だけで良い」


 寧衣が我に帰った時には既に、彼は部屋から消えていた。


(何だったの……)


 真夜中に忍び込んできて、奪うと言い出して、選択を迫って……結局は額に口付けだけして、帰ってしまった佐霧。

 幼馴染なんだから、彼の考えていることは大抵分かる。今まではそう思っていたのに、今夜に限っては何一つ分からなかった。

 

 流し込まれた言葉の重さと、額に残る感触。頭が爆発しそうになりながらも、何とか眠りにつく。


 しかし翌朝、耳にした知らせに寧衣は愕然とすることになる。

 

 『馬だけ連れて、佐霧が消えた』、と。

 

 そして、二年の月日が経過した。

 ──寧衣は明日、十八歳になる。


 *


(夜が明ければ、早雲との婚約が正式に発表される)


 そうなれば、あとは悪夢を秒読むだけ。恐らくもう戻れはしない。

 寧衣は密やかに息をつく。眠れる気がしなかった。


(昼に眠ってしまったから? それとも、明日が憂鬱だから?)

 

 どちらも正しい。しかし、それだけではない気がした。妙な胸騒ぎがした直後──酷い耳鳴りが頭に響く。


(これは、氏神様の気配?)


 十五の時に一度、神桜を枯らしかけて以来、少しでも桜守の仕事が遅れると耳鳴りがするようになったのだった。


 耳鳴りを呼び出し鈴代わりにしないで欲しい。はた迷惑なことだと思っていたがしかし、今は真夜中。氏神に血を求められる時間帯ではない。


 部屋の前には侍女がいる。桜守が逃げ出さぬようにと見張る夜番だった。

 二年前から沈み込んだ寧衣を見て油断しているのか、殆どの日は居眠りしているようだったが、それでも戸を開けば起きてしまうだろう。


(どうしてこんな夜に、氏神に呼ばれているの……?)


 確認するため、そしてこの鬱陶しい耳鳴りを消すために布団から這い出る。

 寝巻きの袖を縛り、隠している使い古しの雪駄を取り出す。指に引っ掛け、足裏を紐で固定した。


 寧衣の部屋は三階にある。

 しかし一階毎にある瓦屋根を伝い、あらゆる窪みを辿れば、地上に降りることは可能だ。

 もう二年ぶりになる脱出劇だったが、身体は覚えてくれていたようだ。然程危なげもなく、家屋を覆う塀までも乗り越えた。


「ふぅ……」


 昔はよく、こうして夜に抜け出したものだった。教えてくれたのが誰だったか、というのは考えないことにする。


 足音を殺し、鳥居を潜り抜ける。

 あの恨めしい神桜の前に──羽織姿の人影が見えた。腰には刀を差している。


(誰? こんな夜更けに、一体何を)

 

 今宵も満開の赤い花々は、妖しく夜闇を仄かに照らしている。

 樹の下で、男は静かに刀を抜くと──神桜に向かって斬り掛かった。花明かりの隙間に一閃、鈍い光が弧を描く。

 

(なっ……!?)


 次の瞬間、巨大な神桜の樹が傾いた。血が吹き出すが如く、赤い花びらが盛大に散る。同時に、耳をつんざく轟音が辺りに響き渡った。

 それは──神桜に宿る氏神の、怒りの咆哮だった。

 

 風は吹き荒れ、木々は一斉に揺れる。鳥たちは慌てたように鳴きながら、宙を飛び交った。


 狂騒にも動じず、男はもう一太刀、鋭い斬撃を神桜に浴びせた。今度は樹が完全に倒れ、大きな地鳴りが響く。

 ──氏神の、断末魔だった。


 大地が揺れ、空気が震え、音は内臓にまで響いた。立っていられなくなった寧衣は、思わずしゃがみ込んでしまう。


 神桜の最期を見届けた男は刀を鞘に収め、ゆっくりと振り返る。


 男の左目には、見覚えのない黒い()()が付けられていた。

 しかし、いくら姿と雰囲気が変わろうと、寧衣が見間違えるはずもない。


「佐霧……」


 二年間待ち望んでいた彼の名が口からこぼれた瞬間、目の前が赤い花びらで埋め尽くされ──意識を失った寧衣は、地面に倒れた。



 *



「ん……」


 浮かぶ意識の中、寧衣は瞼を開く。霞む視界の中で腕を伸ばそうとするが、動かない。何かに固定されているようだった。


「起きたか」

「ひゃっ……!?」


 すぐ背後から耳元に低い声が吹きかけられ、寧衣の肩が跳ねた。


「さ、佐霧……!? 何よ、何を」

「何もしていない。それよりお前、丸二日も寝ていたんだぞ」

「それよりって!」


 丸二日寝ていたこと以上に、何故自分は布団の中で抱きしめられているのか。そちらの方が余程重要だった。

 あとは──彼の左目を覆う眼帯のことも。


 起き上がった彼により、膝の間に座らせられる。そのまま寧衣の袖が捲られ、包帯が解かれた。


「傷が増えている……可哀想に」


 常人なら目を背けたくなるような数多の傷。その中の塞がったばかりの一つを、彼は指先でなぞった。

 

「だが、もう血を捧げる必要はない」

「……どういうこと」

「氏神は殺した」

「はぁっ?!」


(殺した、ですって?!)


 気絶する直前の光景を思い出す。あの地響きはやはり、氏神の最期の声だったのだ。

 

 佐霧は村を出た理由、そしてこの二年間について滔々《とうとう》と語り出す。


 二年前のあの日、彼は書物庫の本の中で有力な記述を見つけていた。

 ──とある村に、神をも殺す刀を打つ一族がいると。

 

 あの夜、最低限の荷と馬を連れて消えた彼は、その村を探しに行ったのだった。

 本の記述から、ある程度の場所の目星はつけていたらしい。用心棒の仕事で日銭を稼ぎながら、辿り着いたのが数ヶ月前のこと。


 幸いにも刀鍛冶の一族は、はるばるやって来た余所者を追い払おうとはしなかった。しかし彼らは、『神殺しの力を刀に込めるには、代償を払わなくてはならない』と告げた。

 そして佐霧は代償として、刀に左目を捧げたのだった。


「そんな……! 貴方、」

「この程度で神を殺せるなら、安いものだろう」


 自分を救うために、最愛の人が目を潰した。

 その事実は当然、寧衣に大きな動揺をもたらす。


 しかし彼は構わず続ける。

 寧衣が寝ていた二日の間に、状況は大きく変わっていたようだった。


「兄上──いや、早雲は幽閉した。愚かにもやしろの金を着服していたんだ。当然、寧衣との縁談も消えた」

「そう、なの」


 その言葉に、安堵してしまう。

 早雲の性根の悪さを思えば、横領の話も不思議はなかった。短気で安直な早雲は、強い権力を持つ鴻上家の当主として、相応しい品位と器を有していない。もとよりそれは、誰の目にも明らかなことであった。

 

「父上も廃した。鴻上は俺が継ぐ」

「はい!?」


 さらに驚きの事実が追加される。桜守に批判的な彼が、保守的な父親とも折り合いが悪いことは知っていたが、眠っている間に代替わりまで為されていたとは。思ってもみなかった。


「いつの間に、そんなこと」

「外を旅をしているうちに、色々と学んだんだ。この小さな村で盤をひっくり返すのは、然程難しいことじゃない。あらゆる布石を打っておけば、尚のこと」

 

 彼は言外に、全て計画的なものだったと仄めかした。旅の中で得た人脈を駆使して、神殺しと家督の奪取を鮮やかに完遂してしまったのだ。


(まるで、知らない人みたいな……)


 目的のためなら手段を選ばない。

 彼の残された右目には、初めて見るような冷酷な光が宿っていた。


「もう、桜守は必要ない」


 血の繋がった家族を陥れてまでも、神を殺す。その覚悟を彼に決めさせてしまったのは、他でもない自分だ。己が背負わせた所業の重さを理解した。


「傷が治るまでは、俺の部屋で療養するんだ。分かったな」

 

 頭を撫でられればもはや、寧衣に選択の余地はなかった。ただ彼に優しく命じられるまま、日々を過ごす。


 療養とは名目ばかりで、実際は部屋から出ることを禁じられていた。

 軟禁とも言える状態だったが、この二年血を捧げに行く以外、ほとんど引きこもっていたのだ。寧衣はあまり気にしていなかった。


 元々”桜守”としてしか自分を見ない両親とは、同じ家に住みながらも疎遠だった。となれば特に不自由もない。


 心配なことといえば、神桜を斬り倒した佐霧の立場だ。しかし彼は「問題ない」の一点張りだった。

 初めのうちは騒がしかった屋敷の外も、すぐに静かになる。それにより彼が家、そして失われた神桜の問題を、迅速に鎮圧したのだと察することができた。


 しかし彼の部屋に身を寄せて以来、佐霧の様子がおかしい。

 

(私に何か、隠しているのね)

 

 それは長年を共にした、幼馴染としての直感だった。


 佐霧が部屋に帰ってくるのは、決まって日が沈んだあと。そして夜明けと共に起きるのか、寧衣が目覚める頃にはもう、部屋から消えている。

 その狭間である夜中はというと……彼は毎晩、寧衣を抱きしめて眠るのだった。

 

 初めは緊張で全く眠れなかったものの、それ以外に彼は何もしてはこない。複雑な気持ちにならないわけではないが、それより次第に心配になってきた。

 毎晩見る彼の顔には、隠しきれない疲労のようなものが浮かんでいたからだ。

 

 一緒に夕餉を取ることも稀にあるものの、彼と顔を合わせるのは、やはりいつも陽が落ちてから。

 何度「朝は起こしてちょうだい」と言っても、「お昼にどこかへ出かけない?」と聞いても、彼は「また今度な」と濁すだけ。


 良い加減おかしいことに、寧衣も気づいていた。


 だから今夜、寧衣は一晩中起きていることに決めたのだ。

 眠気に抗い、どうにかそのまま朝を迎える。


 陽が部屋に差し込んだ瞬間、彼の腕がびくりと動いた。かと思えば、身体に巻きつく彼の腕が急に強張り、ぎりぎりと歯を食いしばるような音が聞こえてくる。


 やがてゆっくりと起き上がった佐霧は、机の上の水差しへ向かった。そして鍵のかかった引き出しを静かに開錠し、薬包を取り出した。


 封が切られる直前、布団から飛び出た寧衣は、彼の身体に抱きつく。


「……起きたのか。外に出るから、離してくれ」

「その薬は何なの……!」

「胃薬だ。昨日、食べ過ぎてしまったからな」

「嘘! ねぇ、私と夜にしか会おうとしないのは、どうして?」


 夜だって、寧衣に手をつけるわけでもなく共に眠るだけ。だというのに、頑なに日中顔を合わせようとしないのには理由があるはずだった。

 

「……家の問題を片付けるのに忙しい」

「いいえ」


 家の業務があるのは本当だろう。しかし彼はまだ、別の理由を隠している。

 

 先程まで布団にいたとは思えないほど、彼の身体は冷えていた。平静を装っているようだが、こめかみには冷や汗が滲んでいる。

 毎日寝る前に用意する水差しといい、引き出しの鍵といい、この薬を常用しているのは間違いない。

 

 布団の中で、朝日が差し込んだ途端に様子をおかしくしていたのを思い出す。これこそ、日中彼が顔を合わせようとしない理由だと直感した。


「まさか……左目以外にも、代償があったの?」

「違う」

「違わないでしょう、本当のことを言って」


 寧衣の声が震える。彼がいなくなった日、最後に残した言葉を思い出す。


『──呪われるのは、俺だけで良い』


 あの夜の、断末魔模様な地鳴りが脳裏に蘇った。

 

「氏神様を殺したせいで、呪われたの……?」


 恐ろしさと申し訳なさで、寧衣の視界が潤む。自分のせいで、ただでさえ大きな代償に重ねて、佐霧は更なる苦痛を身に受けてしまったのだと。


彼は諦めたように息をついた。


「せめてもの報い、ってことだろうな。氏神を弑して以来、太陽の差すうちは常に、刀で切り刻まれるように全身が痛む」


 氏神様は太陽を司ると言われていた。日中に限定した呪いは、その影響だろう。通りで、毎晩現れる彼の顔色が悪いわけだ。

 あんな真夜中に事を起こしたのも、氏神の力が最も弱まる時間を狙っていたからと聞けば、納得も行った。


 ふと思い出す。書物庫に二人して籠った二年前、彼は何冊もの本を並べていた。本に書かれていたのは果たして、神殺しの刀のことだけだったのだろうか?

 

「呪われるかもしれないと分かっていて、神桜を斬ったの?」


 視線から逃げるように俯いた彼を見て、寧衣は察してしまった。


(分かっていたのね。それに……)


 あれほど鮮やかな手際で、神殺しと家の継承を済ませたのだ。呪いの可能性が視野に入っていたなら、解呪の術だって用意していてもおかしくはない。


 そして、早雲との婚約が正式化するのが十八歳とはいえ、実際に婚姻を結ぶのは二十歳の予定だった。桜守の条件ゆえに、任期が過ぎるまでは手をつけられることもない。

 つまり、本当の期限までにはまだ、二年あった。


 だというのに、解呪の術を用意する前にこの村に帰ってきた。その理由はおそらく。


(呪いを解く方法を、既に知っている?)


 そう考えると筋が通った。そして知った上で、彼が拒絶しているのだとすれば。


 寧衣の頭に、呪いを解く方法が一つ浮かぶ。

 それを確かめるには──。


 寧衣は、枕元からそっと短刀を取り出した。


 昨夜、彼がこの部屋に戻ってくる前に、厨房からこっそりくすねてきていたものだ。悪童だったのは何も、佐霧だけではない。

 

「私きっと、その治し方を知っているわ」


 口にしたのは、わざとだった。


 その声に顔をあげた佐霧は、腕に沿えられた短刀を見て血相を変える。寧衣の予測は確信へと変わった。


(氏神様は桜守の血によって生き永らえ、花を咲かせ続けていた。ならば……この呪いを解くのも同じ、桜守の血!)

 

「やめろ!」


 右手の短刀を振ろうとする前に、強い力で手首が掴まれる。


「俺があの神を殺したのは、二度と寧衣に血を流させないためだ!」


(その代わりに佐霧が苦しむというなら、嬉しくない!)


 口には出さず、視線で訴えかける。それで十分伝わったらしく、さらに鋭く睨みつけられる。

 

「一日二日、血を貰って治るならいい。だがもし呪いを抑えるため、永続的な摂取が必要になったら? 今度は氏神じゃなく、俺に毎日血を捧げることになったら?! 俺は、自分が許せなくなる……!」


 だから鎮痛剤で痛みを誤魔化し、隠し通す決意をしたのだと。


 至近距離でじっと睨み合う。

 数十秒の後に、寧衣は全身の力を抜いた。

 ──根負けしたように見せかけるため。


 佐霧が短刀を取り上げて手首を離した瞬間、寧衣は彼の頬を引き寄せた。

 そしてぶつかるくらいの勢いで唇を合わせると、口内に含んでいた血を、彼へと流し込む。佐霧は呆気に取られているようだった。

 

 (腕と短刀は囮……!)


 治療法を指摘する直前、寧衣は予め口の中を深めに切り、血を密かに口内に溜め始めていた。

 それにより暫くは言葉を発することが出来ず、視線のみで訴える手段をとっていたのだった。


 寧衣の企みをやっと理解した佐霧は、もはや抵抗しようとはしなかった。口内から流せる血が無くなり、顔を離す。


 額を合わせると、先程の身体の冷えが嘘のように熱が伝わってくる。顔色を見れば、彼の身体に巣食う苦痛は、消え去ったのだと分かった。

 

「無茶して。佐霧の馬鹿」

「……馬鹿はお前だ。一体俺が何のために、」

「しばらくは我慢してちょうだい。氏神様の気配が薄れている……きっと数日で、この呪いも消えると思うから」


 感覚的なものだったが、桜守として十年間も氏神に血を捧げてきたのだ。恐らく寧衣の見立ては、間違っていない。

 

 さらに呪いが解けたあとも血を与え続ければ、潰した左目だって戻せるかもしれない。そんな気もしたが、言えばまた喧嘩になるだろう。寧衣はひとまず、その可能性については黙っておくことを決めたのだった。


 佐霧は一度大きくため息をついたかと思うと、声をあげて笑い出す。観念した、というように。

 その顔は随分と晴れやかだった。


「──好きだ、寧衣」


 まっすぐ見つめてくる彼の瞳の中に、もはや闇はない。宿る光はあたたかく、愛情に満ちていた。


「俺と結婚してくれ」


 その言葉に、ふわふわと心臓が浮き上がる。だって寧衣は、幼い口約束が叶う日を十八年間、ずっと夢見てきたのだから。


 眼帯越し、今はまだ潰されたままの左目を、そっと撫でる。

 

(いつかまた、勝手に血を飲ませて治してしまおうかしら)


 だけどきっと、物凄く怒られてしまうわね。


 近い将来きっと起こる喧嘩を想像して、寧衣はくすりと笑う。


「好きよ佐霧」


 そして求婚の返事と共に、二年前は口に出せなかった想いを紡ぐ。幼き日の約束をなぞるように。

 

「私のこと、お嫁さんにしてちょうだい」


 ──桜の乙女が血を捧ぐはこの先、ただ一人の愛しい人だけ。

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