オレしか友達いないもんね
「当面の間、伸一郎の家にいてもいい?」
「うん、いいよ。家なら当面の……うん? 当面の間って?」
雪の言葉に、伸一郎は一瞬耳を疑った。マグカップにお茶を注ぎながら顔を上げると、彼女の表情はどこか遠くを見ていた。
「当面の間」という表現に、伸一郎は一瞬言葉が出なかった。せいぜい1、2時間のことを「当面の間」とは普通、言わないだろう。
そんな短い期間では到底ない。
その言葉の辞書には、数日、もしくは数週間という単位が含まれているはずだった。伸一郎は混乱し、急須を持つ指が震えた。
「どのくらいかかるのか分からないのだけど」
「待って! それって、つまり……」
言葉を探しながら、伸一郎は無意識に身を乗り出していた。心臓がやけに騒がしい。雪の言葉が何を意味しているのか、考えたくないのに、考えずにはいられなかった。
「寝泊まりさせてほしいの」
その一言が、まるで時を止めた。
「──アツッ!」
伸一郎は思わず息を呑んだ。手にしたマグカップが小刻みに震え、熱いお茶が手の甲にこぼれる。だが、その熱さよりも、目の前の彼女の言葉のほうが何倍も衝撃的だった。
「だめだめだめだめだめだ……! ど、どどどどどどいうこと!?」
声がひっくり返りそうになる。思わず立ち上がりそうになったが、必死に踏みとどまった。
「……ちょっと、色々事情があって」
雪の声は、まるで氷のように冷たかった。感情を押し殺した声音に、伸一郎は喉がひりつくのを感じた。
「政府の、お仕事関係……かな?」
その言葉に、伸一郎は一瞬、自分が彼女の何も知らないことに気づく。彼女の背負っているもの、彼女の戦い、彼女の孤独。それがどれほど重いのか、想像することすらできなかった。
「うん……なるべく私の名前と居場所が分からないようにしたいの」
その言葉に、伸一郎は息を詰まらせた。
「──……!」
言いたいことはたくさんあった。でも、どの言葉も適切じゃない気がして、結局何も言えなかった。
「あああ〜〜うう〜〜ん……! 雪ちゃんならホテルとか、あっ、変な意味のホテルの方じゃないよ!? 違う! そうじゃない! マンスリーマンションとか、そういうちゃんとした場所の方が良いんじゃないかなぁ!? うちはほら、お風呂は銭湯に行かないとだし、オレは朝早いしぃ……雪ちゃんにはとても……!」
慌てて言葉を並べるが、雪はただ静かに首を振った。
「ホテルもマンションも、名前を聞かれるわ。そもそも未成年だし……」
「──ああ〜!! それは、まぁ、そうか。」
思わず頭を抱える。いや、ダメだろ、これ。未成年の女の子が男の家に泊まるなんて、ダメに決まってる。そもそも俺たちは幼馴染とはいえ、そんな関係じゃ──
「……ダメ、かな?」
小さな声が、胸の奥を叩いた。
雪がゆっくりと手を伸ばし、急須に触れる。彼女の細い指が、陶器の表面をなぞるように滑る。その仕草が、伸一郎の心をぐちゃぐちゃにかき乱した。
「お、お義父さんは、なんて言ってるのかなぁあ……!?」
ほとんど反射でその言葉が出る。雪と養父の関係を知っているはずなのに、あまりにも軽率な問いかけだった。
「正一さんは……お義父さんは、なにも言わないわ」
雪の言葉に、伸一郎は目を閉じた。
“何も言わない”──それはつまり、彼女のことを気にも留めていないということだ。
「……雪ちゃんってさ、オレしか友達いないもんね」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
雪がわずかに目を伏せた。
伸一郎は、逃げるように立ち上がった。
「……布団、買いに行くか」
視線を合わせないまま、そう言った。自分の動揺を隠すために、何かしなければならなかった。そうしないと、このどうしようもない気持ちに押しつぶされそうだったから。