獲物
――夜の喧騒の中で、ふと、伸一郎の中の何かが弾けた。
行き慣れた道。ネオンが滲む歩道。
雑多な笑い声と、排気ガスの混じった湿った風。
その中に――“獲物”がいた。
「どうスか、兄ちゃん。いい店あるよ?」
声をかけてきたのは、飲み屋のキャッチだった。
痩せた体に安物のスーツを纏い、虚勢を張ったような笑顔を浮かべている。
顔の皺、皮膚の乾き、目の奥に宿る浅ましい渇望。
伸一郎の喉が、無意識に鳴った。
(こいつ……美味そうだ)
胃の奥から何かがせり上がる。
それは空腹とは違う感覚だった。
もっと根源的な、もっと濃密な渇望――。
キャッチの男は笑っていた。
無邪気に、仕事として、相手を客として見ていた。
まさか、目の前の青年が**「食べようとしている」**なんて、夢にも思っていないだろう。
……その無防備さが、たまらなく甘い。
(――いける)
理性の隙間に、確信めいた声が響いた。
食える。
今ここで、こいつを――。
指先が動いた。
喉が震えた。
口の奥が熱くなった。
あと、ほんの少し。
ほんの少しだけ踏み込めば――。
「……なにしてんだ、お前」
伸一郎の背後から、低く、地を這うような声がした。
その瞬間、ピシャリと水をぶっかけられたように、全身が凍る。
振り向くと、尾口先輩がいた。
手をポケットに突っ込み、睨みつけるような目をしている。
「尾口……先輩……?」
自分の声が、妙に上ずって聞こえた。
尾口は一歩、踏み込んできた。
ほんの一歩なのに、背中に冷や汗が伝う。
「お前、さっきから気持ち悪ぃ顔してたぞ」
「そ、そんなこと……」
「ははーん?さては……」
伸一郎は咄嗟に手の甲で口を拭った。よだれが出ているかもしれないと思ったからだった。
「どうせメシ食ってねぇんだろ。ホラ、付き合え。飲みに行くぞ」
尾口は伸一郎の肩を叩いた。
その瞬間――伸一郎は自分の肩がひどく強張っていたことに気づく。
「……あ、はい……」
頷くしかなかった。
尾口の手の温度が、人間のそれであることに、ひどくホッとしている自分がいた。
(オレ……なにしようとしてたんだ……?)
そんなはずない。
オレは、人を食べたりしない。
けど、さっきのオレは――。
ひゅう、と夜の風が吹いた。
キャッチの男は何も気づかぬまま、別の客に声をかけに行く。
伸一郎はただ、その背中をぼんやりと見送った。




