「あの……オレ、最近記憶がないことがあるんです。」
「あの……オレ、最近記憶がないことがあるんです。」
問診室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた気がした。
「あ、仕事中は大丈夫です! でも、なんていうか……ふとした時に……その……」
黒い白衣を着た瑞穂は、伸一郎の顔をまっすぐに見つめたまま、指先で軽くペンを回していた。
「記憶がないというのは、数分? それとも数時間単位?」
「えっと、時間はまばらですね。数分の時もあれば、長い時には半日とか……」
瑞穂は小さく「ふむ」と呟き、問診票の隅に何かを書き込んだ。
「うーん。知っているはずの言葉が出ないとか、字が書けないとかはどうかな?」
「それは……今のところないですね。本当に区切られた時間の中で記憶だけがないんです」
瑞穂は顎に手を当てながら、軽く首を傾げる。
「なるほどー。その記憶がない時に伸一郎クンがなにをしていたのか、見ている人はいるの?」
「え?」
思わず聞き返すと、瑞穂は軽く笑って、もう一度言葉を繰り返した。
「記憶がない時の伸一郎クンの状況を見ている人さ。家族とか友達とか。」
「あー……オレ、身内はいなくて、施設出てからはずっと1人暮らしで……」
言いながら、何か言いかけたことに気づき、口を閉じる。でも、その一瞬の迷いを瑞穂は見逃さなかった。
「「あの……オレ、最近記憶がないことがあるんです。」恋人は?キミくらいの年齢なら1人や2人はいるでしょ?」
唐突な問いに、息が詰まる。
「こ、恋人……ではないのですが、幼馴染と暮らしていて、変だと言われたことはないですね」
瑞穂のペンが、一瞬止まった。
そして、にこりと笑う。――が、その目は、さっきよりも鋭くなっていた。
「へぇ?」
短い一言。
しかし、そこに含まれた意味が分からず、伸一郎は妙な居心地の悪さを覚える。
瑞穂は視線を問診票に戻しながら、さらりと続けた。
「君が覚えてない時間、“その友達” は何も言ってないの?」
瑞穂の声は軽い調子だったが、その目は依然として伸一郎を観察するように細められていた。
「えっと……特には……」
そう答えながら、伸一郎は自分の言葉に違和感を覚えた。
――本当に、何も言われてないか?
うららかな春の夜に、記憶のない軽井沢の土産袋を持つ伸一郎に、雪は“一緒に軽井沢に行った”と言っていた。でも伸一郎の記憶にはなければ、スマートフォンの写真フォルダにもなんら痕跡は残されていなかった。
それから、雪には詳しくは聞かなかった。聞くべきだったのかもしれない。
瑞穂は、彼の沈黙を見て取ったのか、少しだけペン先をトントンと問診票に当ててから、また口を開いた。
「夢遊病みたいに、寝ている間に動いてることは?」
「……ない、と思います。朝起きたらちゃんと布団の上にいるし、部屋も散らかってないです」
「ふーん。じゃあ、記憶がない間の伸一郎クンの行動を、誰かが見ているわけでもないし、証言もないってことか」
瑞穂は、ゆるく笑いながら首を傾げる。
「若年性痴呆症を疑ってるようだけど、僕もそのへんは専門じゃないし、ご覧の通り設備もないから今この場で診断はできないんだよねぇ」
「そうなんですか……」
「そうなんだよ。ごめんねぇ」
瑞穂はそう言うと、机の上に置いてあった問診票をめくり、さらさらと何かを書き込んだ。
伸一郎は、そのペンの動きを眺めながら、喉の奥に引っかかるものを感じる。
言うべきか、言わないべきか。昨夜のこと。
“雪を、食べてしまいたいと思った”
――それを、話してしまったら。
この人は、なんて言うだろう?
瑞穂が、ふっと目を上げた。
「ねぇ、伸一郎クン」
「……はい?」
「“記憶がない時間” に、何か問題を起こしたことはない?」
「えっ……?」
「たとえば、気づいたら傷だらけになってたとか、見知らぬ場所にいたとか、人から変な目で見られたとかさ」
突き刺さるような視線。
なぜか、その質問を聞いただけで、背筋がぞくりとした。
「……わかりません」
「ふぅん」
瑞穂は、それ以上何も聞かず、淡々とペンを走らせる。
伸一郎は、たまらず口を開いた。
「……オレ」
言葉が喉の奥でつっかえる。けれど、もう止められなかった。
「最近……幼馴染に対して、変な気持ちになるんです」
「変な気持ち?」
「……たとえば?」
瑞穂の目が、わずかに細められる。
伸一郎は、一度深く息を吸って、視線を落とした。
「……“食べてしまいたい” って、思ったことがあります」
瑞穂のペンが、止まる音がした。
やばい、さすがに変なことを言いすぎただろうか。伸一郎が慌てて発言を取り消すために考えていると、黒い白衣の肩がふるふると震えはじめた。
「あはは!それは!くくく……健康的でいいじゃない」
「……え?」
ここで瑞穂は伸一郎の言った“食べてしまいたい”を食欲ではなく性的な意味でと捉えて笑っているんだ。
「つまりキミはその幼馴染に自分の欲望を晒さないように健気に生活しているわけだね。一緒に。」
たぶん、この黒い白衣の医者は勘違いしている。オレは雪のことを文字通りの意味で「食べたい」と言ったのだが、この人はオレが雪と肉体関係を持ちたいという意味の「食べたい」と受け取ったのだろう。伸一郎は内心ホッと胸を撫で下ろし、九死に一生を得た気持ちで同調するように笑った。
「あ、あはは……!そうなんです。そうなんですよ」
「あー面白い。若いっていいねぇ。問診でこんなこと言われたのはじめてだよ。」
その幼馴染ってのは男なの?女なの?
瑞穂は尋ねながらミミズがかけっこするような文字を問診票に書いた。
「えっと……女の子です」
「あはは。それじゃ俗にいうと生殺しってやつだねぇ。まぁ、そういう積み重なった我慢がキミが思う以上のストレスとなっていまの症状に出ているのかもしれないよ」
雪のことを我慢しているとか、ストレスなんて思ったことないんだけどな……と、伸一郎は胸の中だけで反論した。言葉にするのは無意味だと思い困った顔をするだけでなにも言わなかった。
「人間はねぇ……自分の抱えられる以上のものを背負うと次は忘れていこうとするもんなんだよ」
「はぁ」
瑞穂の言葉に、薄ら寒いものを感じながら、伸一郎はなんとなく口をつぐんだ。




