古いアパートの一室に
伸一郎は部屋に雪を招き入れると、すぐにキッチンへ向かった。コンロの上にヤカンを置き、手早く火をつける。じんわりと冷えた空気が残る部屋に、やがて湯気とともに温かな茶の香りが広がるだろう。
「来るなら言ってくれればよかったのにー」
湯が沸くのを待ちながら、伸一郎は振り返る。愚痴のような言葉だったが、その口調はどこか無理にでも笑おうとしているようだった。
「知ってたら、もうちょいマシなもの作れたのにな。今日の夕飯、麻婆豆腐にしようと思ってさ。ひき肉と豆腐しか買ってないんだよなぁ」
言いながら冷蔵庫を開ける。調味料は問題ないが、副菜らしいものは何もない。冷凍庫にもめぼしい食材はなく、買い置きの卵も昨日で切らしていた。
「あー、豆腐ハンバーグとかにできるかな……いや、玉ねぎがないな」
独り言をぼやきながら、伸一郎は目を落とす。いつもなら適当に済ませる食事も、こうして誰かがいると妙に気になった。普段は訪れる者もなく、自分ひとりで黙々と食べるだけのこの部屋に、今は雪がいる。それだけで、なんとなく心が落ち着く気がした。
雪は部屋の隅に置かれたテーブルの前に、静かに腰を下ろしている。伸一郎はちらりと彼女を見やった。
「まぁ、でも……来てくれるのは嬉しいけどな」
そう言ってみせるが、雪は無言のまま、ただ折り畳みのテーブルの天板をじっと見つめている。彼が何を言おうと、反応するでもなく、けれど聞いていないわけでもない。
──昔からこうだった。
同じ施設で育った幼馴染だからか。雪が自分に心を許しているのかどうか、伸一郎には判断がつかない。だが彼女が無言でも、その存在は確かに彼の言葉を受け止めていた。
「急にどうしたんだ? ようやく俺と……」
「ねぇ」
不意に、雪が顔を上げる。その黒曜石のような瞳に射抜かれ、伸一郎の言葉が止まった。
「……伸一郎を出して」
その瞬間、彼の笑顔がぴたりと固まる。
「……アレ?」
雪の声は静かだったが、その一言が部屋の温度を一気に下げたようだった。
「イツから分かってたの?」
「最初から」
「あーあ、またダメだったか」
伸一郎──いや、**“ケイ”**は天井を仰いで大げさに嘆いた。そして、ゆっくりと顔を戻し、悪戯っぽく微笑む。
「たまには俺の相手をしてよ、雪ちゃん。せめて、名前ぐらい呼んでほしいなー?俺も伸一郎と同じく幼馴染じゃないか」
「ケイ。あなたに用はないわ」
確かに呼べと言ったが、そうではないんだが……。
ケイは肩をすくめた。だが、その顔にふと変化が起こる。彼の額に、這い上がるように黒い紋様が浮かび上がった。それは交差し、まるで魔法陣のように彼の肌に刻まれていく。
「……伸一郎に用があるの」
ツレナイナァ。どうせ体はひとつなんだから、どっちでも一緒だろう」
ケイの言葉に、雪は微かな震えを感じる。どこか哀れみすら覚える。無反応を貫こうとしても、どうしてもその冷徹さが心を揺さぶるのだ。
「はぁ……仕方がないなぁ……」
ケイがふっと息をつくと、顔に刻まれた紋様がスルスルと消え、青年の穏やかな笑顔が戻る。だが、その笑顔の中にはどこか冷徹な影が漂っていた。
「……あれ。雪ちゃん」
家に来ていたの?と、青年は朗らかな笑顔を雪に向けた。そこには先ほどの気配は消え失せて、ただの青年だった。
「さっき、スーパーから帰るところで偶然会ったの」
「え、あ。そう、だっけ?」
「今日は麻婆豆腐にするの?」
「ああ、そうそう。うーん、でも失敗したなぁ。雪ちゃんが来てくれるなら、もっと美味しいものを……」
「ううん。伸一郎の作った麻婆豆腐食べたい。」
その言葉に、伸一郎の顔はパッと明るくなる。
「でも、藤原さんちの方は……夕飯食べて行っても大丈夫なの?お義父さん、心配するんじゃない?」
やけに濃くなった急須のお茶をマグカップに注ぎながら伸一郎は遠慮がちに尋ねた。幼馴染とはいえ、若い女の子が一人暮らしの男の家に来るのはどうだろうと思うのは、古い考えだろうか。
「……実は伸一郎にお願いがあるの」
「へ?」