嫌な予感
窓を開けても風はぬるく、身体に巻きついた充電ケーブルは結局朝方になって外した。伸一郎は一睡もできないまま朝を迎えた。目の奥がじんじんと痛む。
顔を洗って無理やり目を覚まし、いつも通りアパートを出る。人の少ない道を選びながらバイト先へ向かった。
建物の入り口に立つと、警備員の交代時間より少し早い。なんとなく嫌な予感がした。
――案の定だった。
警備室の扉を開けた瞬間、いつもとは違う空気を感じた。
室内で目に入ったのは、腕を組んで無言で立つ尾口先輩と、真夏だというのにタートルネックを着ている男だった。
伸一郎が一歩足を踏み入れると、二人の目線が同時に自分に向けられた。その瞬間、何かが静かに変わったような気がした。
「おはようございます」と言っても、返ってきたのは重い沈黙。
先に言葉を発したのは、タートルネックの男だった。目を細めて、まるで物を試すように伸一郎を見つめたその顔に、違和感が走った。
「ああ、良かった。君を待っていたんだよ、伸一郎クン……だったかな」
「え、オレを……ですか?」
その笑みは、どこか優しいが挑発的で、伸一郎を軽く見ているようだった。どこか他人行儀で、しかし決して無礼ではない。ただし、無意識に相手に圧をかけているような、そんな雰囲気があった。
その男の言葉を尾口先輩は無視するように、無表情で腕を組み続ける。伸一郎はすぐに察した。この男は、尾口先輩よりも“格上”だということを。
「ここの下に埋められている水道管に亀裂が見つかったんだ。急ではあるけど、建物全体を封鎖することが決まった。検査の目安は1カ月程度かかるらしいけど、まだ本格的なことはわからないんだ」
「そんな急な……1カ月……ですか?」
「そう。工事の間はアルバイトさんには休んでもらおうという話になったんだ」
伸一郎が言葉を発した瞬間、その質問は一層空気を重くした。尾口先輩が口を開こうとしたが、先にタートルネックの男が答えた。
「そうなんだ。申し訳ないけど、今日から休みにしてもらって構わないかい?全額ではないけど、休業補償はするから安心して欲しい」
その言葉に、伸一郎は心臓が止まるかと思った。
まるで、生命線が切り離されたような、そんな気持ちが一瞬で駆け巡る。
仕事がなくなる……この建物での自分の存在が、どこかで消えてしまった気がした。
尾口先輩は、何も言わず腕を組んだままだった。
「あの……」
伸一郎が一度、言葉を飲み込んだ。
「すみません。あなたは……?」
思わず質問が口をついて出るが、その声にはわずかな不安が混じっていた。
タートルネックの男は、わずかに眉を上げた。そして、ゆっくりと口を開く。
「……ああ、そういえば名乗ってなかったね」
その声色には、気にも留めていなかったという軽さがあった。
「僕の名前は如月智彌だよ」
その一言に、伸一郎はその男が自分とは全く違う種類の人間だと、すぐに悟った。
――言葉にできない圧倒的な違和感。加えて、優しげという薄布を隔てた内側では、伸一郎みたいなニンゲンを見下している。
この男が最初に伸一郎に名前を名乗らなかったのは、おそらくそういうことなのだ。
伸一郎の心の中で、わずかな劣等感が疼く。
如月は柔らかな笑みをたたえたまま続ける。
「工事が終わったら尾口さんから連絡してもらうよう手筈を整えておくよ」
その言葉が、伸一郎には信じられなかった。
表面的な微笑みの中で少しも笑いもしない目の奥に、本当に何かを見抜いているような気配を感じてしまう。
沈黙が落ちた。
尾口先輩は相変わらず腕を組んだまま、視線を外さない。
伸一郎は何かを言おうとしたが、喉の奥で言葉が詰まった。
如月は、伸一郎をじっと見つめたまま、ゆっくりと目を細めた。




