表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/50

よだれ

スーパーのレジ袋を片手に、伸一郎は古びたアパートの階段を上った。


木製の手すりはところどころ塗装が剥げ、足元の床板はギシギシと軋む。部屋の鍵を開けると、薄暗い空間が迎えた。


 袖を捲って手を洗い、米を研ぎ、炊飯器のスイッチを押す。その間に、カレーの具材を切り始めた。


玉ねぎを薄くスライスし、人参とじゃがいもをゴロゴロとした大きさに揃える。フライパンに油を引き、玉ねぎを炒める。じっくりと時間をかけ、透き通るまで炒めた後、鍋へ移す。


 (肉は……結局、豚肉にしたんだっけ)


 思考の端でそんなことを考えながら、赤い肉の塊をまな板の上に置く。


 包丁を入れると、やわらかな肉質が刃を受け入れ、スッと切れ目が入った。

 まるで、生き物の皮膚を裂くような感触だった。


 「……」


切り分けた肉を鍋に放り込む。

ジュウッ、と油と混ざり合って、食欲をそそる香りが立ちのぼる。


しばらく煮込んでルウを溶かし、さらに煮詰める。ゆっくり、じっくり、旨味を閉じ込めるように。


ぐつぐつと泡を立てながら、カレーが完成に近づいていく。米も炊きあがった。


 (いい匂いだ……)


ぐつぐつと煮えたぎるカレー鍋から、立ち上る香ばしい匂い。炊き立ての白いご飯。食欲をそそる、馴染みのある光景。


伸一郎はしゃもじを握ったまま、鍋の中をじっと見つめていた。とろけた野菜と肉がルーに絡まり、どろりと流れる。


 美味そうだ。


 雪も、食べたら美味しいんだろうな――。


 その瞬間、口の中に生唾が湧き、ポタ、ポタと唇からよだれが垂れた。思わず舌で拭おうとして、ハッとする。


(……なんで、俺、今――)


 ぞくりと背筋を悪寒が走った。まるで、獲物を見るような目でカレーを見つめていた自分に気づく。これは、普通じゃない。おかしい。


「……ッ」


 急いで口元を腕で拭う。

 ぞわぞわとした嫌悪感が背中を這い上がり、胃の奥が気持ち悪くなる。


(俺、なんか……変だ……)


 そのとき、玄関のドアが開く音がした。


 「……ただいま」


 雪の声。


 伸一郎はビクリと肩を揺らし、慌てて鍋に背を向けた。


 「お、おかえり!」


 自分でも驚くほど声が裏返っていた。

 雪が鞄を下ろしながら、ふと伸一郎の顔を覗き込む。


 「……なんだか、顔が赤いように見えるけど。大丈夫?」


 ぎくりと心臓が跳ねた。


 「な、なんでもないよ……」


 伸一郎は視線を逸らしながら答えた。

雪の目が、まるで心の中を見透かすようにこちらをじっと見つめてくる。


だが、雪はそれ以上は何も言わず、ふわりと香るカレーの匂いに気づいたのか、小さく息を漏らした。


 「……カレー?」


 「あ、ああ。食うだろ?」


 誤魔化すように慌ただしく食器を取り出す。

 伸一郎の胸の奥には、まだ得体の知れない不安がくすぶっていた。



伸一郎は無意識に、自分の舌で口の端を舐めた。


 ――雪を食べたら、どんな味がするんだろう。


 その考えが、鍋の中のカレーと溶け合うように、ゆっくりと広がっていく。


 自分が今、何を考えたのか。


 それに気づいた瞬間――


 伸一郎は、ゾッとした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ