よだれ
スーパーのレジ袋を片手に、伸一郎は古びたアパートの階段を上った。
木製の手すりはところどころ塗装が剥げ、足元の床板はギシギシと軋む。部屋の鍵を開けると、薄暗い空間が迎えた。
袖を捲って手を洗い、米を研ぎ、炊飯器のスイッチを押す。その間に、カレーの具材を切り始めた。
玉ねぎを薄くスライスし、人参とじゃがいもをゴロゴロとした大きさに揃える。フライパンに油を引き、玉ねぎを炒める。じっくりと時間をかけ、透き通るまで炒めた後、鍋へ移す。
(肉は……結局、豚肉にしたんだっけ)
思考の端でそんなことを考えながら、赤い肉の塊をまな板の上に置く。
包丁を入れると、やわらかな肉質が刃を受け入れ、スッと切れ目が入った。
まるで、生き物の皮膚を裂くような感触だった。
「……」
切り分けた肉を鍋に放り込む。
ジュウッ、と油と混ざり合って、食欲をそそる香りが立ちのぼる。
しばらく煮込んでルウを溶かし、さらに煮詰める。ゆっくり、じっくり、旨味を閉じ込めるように。
ぐつぐつと泡を立てながら、カレーが完成に近づいていく。米も炊きあがった。
(いい匂いだ……)
ぐつぐつと煮えたぎるカレー鍋から、立ち上る香ばしい匂い。炊き立ての白いご飯。食欲をそそる、馴染みのある光景。
伸一郎はしゃもじを握ったまま、鍋の中をじっと見つめていた。とろけた野菜と肉がルーに絡まり、どろりと流れる。
美味そうだ。
雪も、食べたら美味しいんだろうな――。
その瞬間、口の中に生唾が湧き、ポタ、ポタと唇からよだれが垂れた。思わず舌で拭おうとして、ハッとする。
(……なんで、俺、今――)
ぞくりと背筋を悪寒が走った。まるで、獲物を見るような目でカレーを見つめていた自分に気づく。これは、普通じゃない。おかしい。
「……ッ」
急いで口元を腕で拭う。
ぞわぞわとした嫌悪感が背中を這い上がり、胃の奥が気持ち悪くなる。
(俺、なんか……変だ……)
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「……ただいま」
雪の声。
伸一郎はビクリと肩を揺らし、慌てて鍋に背を向けた。
「お、おかえり!」
自分でも驚くほど声が裏返っていた。
雪が鞄を下ろしながら、ふと伸一郎の顔を覗き込む。
「……なんだか、顔が赤いように見えるけど。大丈夫?」
ぎくりと心臓が跳ねた。
「な、なんでもないよ……」
伸一郎は視線を逸らしながら答えた。
雪の目が、まるで心の中を見透かすようにこちらをじっと見つめてくる。
だが、雪はそれ以上は何も言わず、ふわりと香るカレーの匂いに気づいたのか、小さく息を漏らした。
「……カレー?」
「あ、ああ。食うだろ?」
誤魔化すように慌ただしく食器を取り出す。
伸一郎の胸の奥には、まだ得体の知れない不安がくすぶっていた。
伸一郎は無意識に、自分の舌で口の端を舐めた。
――雪を食べたら、どんな味がするんだろう。
その考えが、鍋の中のカレーと溶け合うように、ゆっくりと広がっていく。
自分が今、何を考えたのか。
それに気づいた瞬間――
伸一郎は、ゾッとした。




