唐揚げ
怪人1-34
ジジジ……パチンッ!
油の海に沈んだ鶏もも肉が、小さな爆ぜる音を立てる。
古びたアパートの狭い台所に、熱された油の匂いが広がる。
「よし……そろそろ返すか」
菜箸で唐揚げをひっくり返しながら、伸一郎はじりじりと胸の内で煮詰まるような感覚を覚えていた。
(……雪と話していた、あの男は誰なんだろう)
あの黒ずくめの男。細身で無表情。雪の前に立って、まるで何かを確認するようにじっと見つめていた。
(オレと同じくらいか……年上か?20代くらいに見えたな)
雪の親戚か? いや、それはないはずだ。
雪は養子に引き取られた家で育ったが、「その家には自分しか子供がいなかった」と言っていた。
(雪はオレと同じで、身内のいない1人きりのはずだ)
なら、誰だ? どこで知り合った? 何を話していた?
熱気に満ちた台所で、伸一郎のこめかみにじわりと汗が滲む。
ジジジ……パチンッ!
唐揚げがまた一つ、油の中で暴れる。
(それにあの距離……)
伸一郎は思い出す。
スーパーの前で見た光景。
雪と、あの男。
——近い。異常なほどに。
言葉を交わす二人の間には、ほとんど隙間がなかった。まるで、次の瞬間には唇が触れてしまいそうな距離だった。
(……っ! ありえねぇ……!)
唐揚げの熱さとは別の、じりじりと焼けるような感情が伸一郎の中に広がっていく。
菜箸を握る手に、無意識に力が入った。
ジジジ……パチンッ!
唐揚げが黄金色に染まり、油の中で踊る。台所には香ばしい匂いが満ち、カリッと揚がった衣が音を立てる。
それでも、伸一郎の心は晴れなかった。
(……もう学校は終わってるはずだよな)
腕時計に視線を落とす。長針と短針は、すでに夕方の時間を指している。
帰るには十分すぎる時間が経っていた。
ジリジリと胸の奥が焼けつくような感覚がする。
まさか——いや、そんなはずはない。
それでも嫌な予感が拭えず、伸一郎はスマホを手に取った。
LINEを開く。
『雪ー今日の晩御飯は唐揚げー』
そう送ったメッセージの横には、無機質な「未読」の表示が残ったままだった。
(……まだ既読がついてない)
雪がスマホを放置することなんて、ほとんどない。少なくとも、こうして家に帰る途中なら、メッセージのひとつくらいは読んでくれてもいいはずだ。
(何かあったのか? それとも……アイツとまだ一緒にいるのか?)
あの黒ずくめの男が脳裏にちらつく。
スーパーの前で、異常に近い距離で話していた雪と男の姿。
(……くそっ)
唐揚げを揚げる菜箸を握る手に、また力がこもる。外では夜風が吹き始め、カーテンがわずかに揺れた。伸一郎は、じっとスマホの画面を見つめ続けた。
その時——
ガチャリ。
「ただいま。ごめんね、先生と話をしていたら帰りで遅くなって……」
雪の声が玄関から響いた。
「——っ!!?」
伸一郎はビクッと肩を揺らし、スマホを乱暴にテーブルの上に放った。
(帰ってきた!!)
「お、おかえり!おそ、遅かったな!」
動揺が声ににじみ出る。咄嗟に理由を問いただしたくなったが、言葉がうまく出てこない。
パチンッ!バチバチバチッ!!
「うわっっっ!?」
その瞬間、油の海が暴発した。
唐揚げの衣がはじけ、大粒の油が飛び散る。伸一郎は慌てて後ずさり、腰をガツンと台所の棚にぶつけた。
「いっっってぇ……!」
「伸一郎?大丈夫?」
「ちょ、油が!!熱っ、あっっっ!!?」
跳ねる油を避けようとしてバランスを崩し、伸一郎は思いっきり唐揚げを山盛りにした大皿を持つ手を傾けかけた。
「あっ……!!」
雪が素早く駆け寄り、伸一郎の腕を支える。
ギリギリのところで、皿の上の唐揚げは守られた。2人でホッと胸を撫で下ろした。
「伸一郎。なにか……」
「……いや、違う!違うんだ! これはその……!」
「どうしたの?」
「あの、その……ほら、油が!めちゃくちゃ跳ねたから!」
雪が伸一郎の手の中の唐揚げを見つめた。
「……そんなに慌ててどうしたの?」
「べ、別に慌ててなんかないぞ!? 普通に料理してただけで!!」
「……?」
雪はじっと伸一郎の顔を覗き込む。
(やばい、動揺がバレる!!)
「と、とにかく! 今日は豪華に唐揚げだぞ!!キャベツも買ったぞ!!」
「キャベツ、高かったでしょ?」
「さ、さすがに400円のは買えなかったけど、カットされたやつなら安かったし!」
「ふふ、ありがと。……楽しみだなぁ。伸一郎の唐揚げ」
雪は少し微笑んで、エプロンを取り出した。
「私も手伝うよ。」
「う、うん……!」
伸一郎は油が跳ねた腕をそっとさすりながら、雪の横顔をちらりと盗み見た。
(よかった。とりあえず、普通だ……)
でも、やっぱり気になる。あの黒ずくめの男のことを——。




