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限りなく幸せな夢

怪人1-31


部屋を出ると、伸一郎はその瞬間、まるで身体が別の場所に引き寄せられたような感覚を覚えた。


何もかもが急に、現実でなくなる。


彼は自分の顔を見た。そして——夢の中で見た自分とまったく同じ姿の男が、知らない女と激しく唇を重ねていた。


ずいぶんと手慣れている。目の前にいるのは自分の体なのに、そんな手で、女の体に触れるなんて……伸一郎は胸の中で呻いた。


やがて、女は苦しむようにベッドへと崩れ落ちていく。その瞬間、伸一郎は反射的に叫びたくなった。


『……ああ、やめてくれ。苦しんでいるじゃないか。可哀想だ。』


その言葉が、彼の脳裏に響く。だが、心の中に別の声が答えた。


——可哀想?こんなに膨れた欲望を前にして、我慢なんてできるわけがないだろう?そう思わないか、伸一郎。


その声に背筋が凍りつく。


「うわあああああ……っ!!!?」


そして、気がつけば自分のアパートの一室。伸一郎は悪夢から覚めたように、激しく息を乱していた。酷い汗が背中を伝い、夏の近づきが原因でないことを彼自身が理解していた。


なんなんだ……っ!?さっきのは。


夢にしてはあまりに生々しい。実際に自分が見てきたかのような映像に、伸一郎は震えた。あれじゃ、まるで自分が女の人を襲っているようじゃないか。そんな趣味は、伸一郎には無かった。無いはずだ。あって良いわけがない。至って自分はノーマルな性癖しかないことを自覚した上で、あれは夢なんだと言い聞かせた。


「伸一郎?」


声がした。雪ちゃんだ。


「……雪ちゃん」


六畳一間の中で薄い布一枚を壁がわりにして空間を隔てている。ないよりはマシだと思いながら、この薄布があることで伸一郎は自分の欲望から雪を守れているのだ。


「すごくうなされていたけど……大丈夫?」

「あ、ああ……ごめん。うるさかったよな……なんか、変な夢を見て……」

「わたしは大丈夫だよ。夢を見て、あんなにうなされていたの?」

「うん……」


薄い布に月明かりに照らされた雪のシルエットが浮かぶ。


その輪郭は、夢の中で見たどんなものよりもはっきりしていて、伸一郎の中に静かな安堵をもたらした。


薄い布に月明かりに照らされた雪のシルエットが浮かぶ。

柔らかな光が彼女の輪郭を縁取り、まるで幻想のように儚い。


「……手。握る?」

「え?」

「子供の時、お昼寝で寝れない時によく手を握ったわ」


薄布の隙間から、すっと白い手が差し出される。

切り揃えられた形のよい爪。長くしなやかな指先。

すべてが穢れなく、冷たい冬の空気のように澄んでいる。


(——天使みたいだ。)


月明かりに照らされた雪の手は、白銀の光を帯びているようにさえ見えた。

自分と同じ人間のはずなのに、彼女はいつだってどこか違う。

汚れを知らず、触れることさえためらうほどに。


伸一郎は唐突に子供の頃を思い出した。

雪と一緒にいた日々。どんな時も彼女は伸一郎のそばにいて、何気ない言葉や仕草が、ただそれだけで彼を安心させてくれた。


(……オレは、いつからこんなに自分がわからなくなってしまったんだろう。)


「……そんな、雪ちゃん。昔のことを言って……」


そう言いながらも、伸一郎はぬるい布団の上でじりじりと指を伸ばす。

恐る恐る雪の細い指に触れ、その手を握った瞬間——ひやりとした感触が伝わってきた。


冷たい。けれど、不思議と心地よい。

雪の手は、熱に浮かされた自分の心を穏やかに冷ましてくれる。


「伸一郎の手。大きいね」

「そうかな……」

「子供の時はわたしの方が大きかったのに」

「雪ちゃん、それいつの話をしてるの?」

「伸一郎がおねしょをわたしのせいにした時の頃」

「……それ、この先ずっと言われるんだろうなぁ」

「ふふっ」


雪の笑い声が響く。

透き通るように綺麗で、心の奥に真っ直ぐ届く音色。


それを聞いて、ようやく伸一郎は現実に帰ってきた気がした。

ここは、自分の居場所だ。

雪の隣が、オレの居場所だ。


眠気が、またじわじわと意識を侵食する。

まぶたが重くなり、意識が深いところへと沈んでいく。


——次に見た夢の中で、伸一郎は久々に子供の頃の雪と遊んでいた。

あの頃の自分は、何の疑いもなく彼女の手を引いて笑っていた。


それは、限りなく幸せな夢だった。

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