雪ちゃん
夜の闇に溶け込むように、古びたアパートが静かに佇んでいる。塗装は剥げ落ち、壁には無数の傷跡が刻まれていた。手すりは錆びつき、階段の軋む音が聞こえてきそうだ。
青年は、その光景を前にして、ふと足を止める。
——これでも、一応 “我が家” なんだよな。
六畳一間の狭い部屋。どこからどう見ても「我が家」なんて呼ぶには似つかわしくない。ただの古びた空間。だが、それでもここが「帰る場所」であることに変わりはなかった。
こんな見かけのくせして家賃はそこそこするのである。ボロアパートのくせに、妙にふっかけられている気がする。けれど、その理不尽さも含めて、この部屋に愛着が湧いてしまうのだから、人間とは不思議なものだ。
「まぁ……これでも、俺の家だしな」
皮肉っぽく呟きながら、ポケットに手を突っ込んで階段へ向かう。
冷たい風が吹き抜ける。古びた建物のにおいが鼻をかすめ、いつもの夜の匂いに、ほんのわずかだけ安堵を覚える。
そんな時だった。
ふと見上げた外階段の途中に、彼女はいた。
——藤原 雪。
長い黒髪が、夜風にそっと揺れる。その髪は闇に溶け込むように滑らかで、絹のように光を反射している。
彼女はセーラー服姿のまま、階段にちょこんと腰掛けていた。
静かに、ただそこにいるだけなのに、まるでこの世界から切り離されたかのような気配を纏っている。
その場の空気が変わった。周囲の喧騒が遠のき、世界が静止したように感じる。まるで、彼女の周りだけ別の時間が流れているみたいに。
青年は、言葉を失った。
「……雪ちゃん?」
無意識のうちに、名前を呼んでいた。雪は何も言わない。ただ、静かにこちらを見つめている。その瞳の奥には、何が映っているのか。青年は、息を呑んだ。
――まさか。
ありえないはずの存在が、そこにいた。