欲望
「最初に、キスしていい?」
男の低く、滑らかな声が耳を撫でる。
唐突な問いかけに、女は少しだけ眉をひそめながら答えた。客の中には、こういう風にやたら礼儀正しく聞いてくるやつもいる。普通の恋人ごっこを求めている男か、それとも高単価のコースを選ぶ気があるのか——そんな考えが、一瞬よぎる
「キスはオプションだけど?」
「それでもいいよ。」
微笑を含んだ囁きに、女は一瞬だけ戸惑う。
優しい声だった。
妙に落ち着いたその響きが、彼女の中に微かな違和感を残したが、気にしないことにする。若い男だ。大学生くらいなのかもしれない。
そう思うと、唇が少しだけ熱を持ったような気がした。女は静かに目を閉じる。
——そして、触れる。
思ったよりも優しく、思ったよりも穏やかに。
(……普通じゃん。)
拍子抜けするほど、柔らかく、ゆったりとした口づけ。熱がじわじわと滲み、ほんのわずかに舌先が触れ合う。湿った感触が絡み、女の喉の奥に甘い吐息が漏れそうになる。
——だが、その瞬間。
ひやりとしたものが背筋をなぞった。
唇は温かいのに、まるで何かが流れ出ているような感覚。時間が引き伸ばされるような、妙な違和感。
(なに、これ……?)
息を継ぐように、唇が離れる。
「——じゃあ次は……」
耳元で囁かれる声が、ほんのりと熱を帯びる。
「君の欲望を、オレにくれるかな?」
耳元で囁かれた声は甘やかで、どこか満ち足りていた。まるで確信しているかのように——。
女が息を継ぐ間もなく、もう一度、唇が触れ合う。
最初の口づけとは違った。
深く、絡め取るように、息も思考も掬い上げるような——。
(な……に、これ……?)
絡みつく唇に熱を奪われる。
喉の奥から、何かがゆっくりと吸い出されていくような感覚。
熱が、消える。
指先が、痺れる。
けれど、声を上げることも、身を引くこともできない。
ぞわり、と。
背筋を這い上がるような悪寒が女の全身を貫いた。
(やば……い……っ)
恐怖の信号を送ろうとしても、思考が追いつかない。
震える指先を動かそうとしても、関節が鉛のように重い。まるで、体の中から何かが抜き取られているみたいに——。
「な、なに……!? アンタ、私になにしたの??」
やっとの思いで唇を引き剥がし、掠れた声を絞り出す。
男——いや、怪人はにっこりと微笑んだ。
「アー……大丈夫、大丈夫。最初は少し違和感があるだろうけど、すぐに良くなるから……ネ」
にじむ視界の向こうで、静かに囁く声。
その言葉が、底知れぬ不吉さを孕んでいると理解したのは、全身の力が抜け落ちた瞬間だった。
崩れ落ちる。
指先から、腕から、脚から、すべてが抜け落ちる。さっきまで、欲望のために動いていた身体が、ただの人形のように力を失う。
膝が砕け、ベッドの端にもたれながら、女の体は仰向けに転がった。
「や……ヤダ…!!…ヤダ……たすけ……て」
もはや声にならない声が漏れる。爪先すら動かせない。その恐怖に瞳を見開いたまま、唇にひんやりとした感触が再び落ちた。
——今度は、完全に、逃げられないほど深く。




