脳内会話
尾口先輩に相談して少し軽くなったような、かえって不安が募るような気持ちを抱えて伸一郎はアルバイト先の建物を出た。
夕方のビジネス街はスーツを着た大人達で溢れかえっていた。みんなどこかに帰ろうとしているのか、それともこれから行こうとしているのか。
伸一郎はリュックを手にはぁとため息を吐いた。今日は夜間大学も休校で、本来ならばこのまま雪のいるアパートに浮ついた気持ちで帰るのだが……なんだか足が向かなかった。
雪が骨折したと言って、次の日に戻ってきたあの日。雪は確かにギブスを外していた。もう治ったと言って。
雪は魔法少女なのだから、こんなこと気にしすぎなのかもしれない。アニメや漫画の世界では怪我や病気が一瞬で治ることはよくあることだろう。魔法少女なのだから、それも可能なのではないだろうか?
(あの子は最強の魔法少女“藤原雪”だぞ。傷を治すなんてのは朝飯前だろう)
「そうかもしれないけど……目の前で見るとなんていうか」
(化け物みたい、か?)
「そんな風になんて思っていない。」
(いや、お前は今そう思った。認めてしまえ。そうすればもっと生きやすくなるはずだ)
「だから思ってないってば。しつこいな。だだ、すこし……びっくりしただけなんだ」
(どうかな?驚いたということは、それが普通のニンゲンには不可能だからこそ藤原雪を普通じゃないと思ったのだろう)
「それは……」
「……ねぇ」
(じゃあ、お前は藤原雪を……)
「ちょっと!お客さん、私の話聞いてるっ!?」
「……っえ?」
大きな声で呼ばれて伸一郎はハッと顔を上げた。目の前には派手な格好をした女の人が立っていた。その時、突然「ねぇ!」というはっきりした声が飛び込んできた。
伸一郎は驚き、ようやく我に返った。
「……えっ?」
あたりを見渡すとどうやら室内のようだ。しかも、そこかしこに淫靡な雰囲気が漂っている。
伸一郎はギョッとした。
「ちょっと……お兄さん大丈夫?ずっとブツブツ独り言話していたけど……」
変なクスリでもやってるの、という言葉を女が飲み込んだのが伸一郎には分かった。
伸一郎は、自分の奥歯がカタカタと鳴るのを感じた。寒くもないのに、背骨の奥が氷のように冷たくなっていく。肺が縮こまり、喉がひゅっと細くなる。心臓が跳ねるように脈打ち、それに合わせて鼓動が耳の奥を叩いた。
“どうして、こんなところにいるんだ?”
思考が空回りし、何も掴めない。
必死に記憶を掘り起こそうとするが、そこには空白しかない。確かにさっきまで歩いていたはずだ。なのに、気がついたら見知らぬ女と淫靡な部屋に2人きり——まるで夢遊病者のように、自分の意志とは関係なくここへ流れ着いたような違和感。
伸一郎はリュックを見つけると、咄嗟に掴んだ。
「す、すみません……!あの、オレどうしてここにいるのか分からなくて……」
「はぁ?あなたが呼んだんでしょ?」
伸一郎の様子に警戒したのか、女は腕を組んだ。
「オレが……?」
「そうよ。呼ばれなかったら、来ないでしょ。ねぇ、どうするの?もう料金は発生するんだけど……」
伸一郎は自分の視界がぐにゃりと歪むような気がした。
どうして自分がここに呼んだのか分からない。それに女を……呼んだ?そんな記憶は脳味噌を引っ掻き回しても何処にもない。
やはり自分はおかしくなってしまったのだろうか。
不安と恐怖が入り混じり伸一郎は幼い頃からの癖で、震える指先を顔へ持っていった。鼻梁をなぞるように手のひらを滑らせる。指先の感触が確かにそこにある。それだけで少しだけ、心が落ち着く気がする。
だが——
手のひらが頬をかすめた瞬間、思考がふっと遠のいた。
奥歯の震えがピタリと止まり、代わりに胸の奥が妙に静かになる。先ほどまでの恐怖がまるで他人のもののように感じられた。肩の力が抜け、口元にゆるりと笑みが浮かぶ。
明らかに様子のおかしい伸一郎を見ていた女が、自分の携帯電話を取り出して何処かに連絡しようとしていた。それを伸一郎の指がそっと遮った。
「アー……もう大丈夫。変なこと言ってごめんネ?」
滑らかに発せられたその声は、確かに伸一郎のものだった。しかし、そこに滲むのはほんのわずかに違う温度の、何か。
「ヤバそうだけど……本当に大丈夫なの?」
「うん、大丈夫大丈夫。続きをはじめよう。」
にっこりと笑う男を前にして、女は頭の中で計算を始める。
この時間のロスは痛い。今日中にアノ人のバースデーでシャンパンを開けなきゃいけないのに。あとちょっと足りないけど、この客が普通なら十分埋められる。
——普通なら。
視線を戻すと、男は相変わらず笑っていた。けれど、その微笑みは妙に整いすぎていて、まるで顔の皮だけを動かしているみたいだった。
胸の奥に、小さなざわつきが生まれる。
“やめとくべき?”
——でも、それを振り払うように、女は小さく息を吐いた。
「……そっか。じゃあ、始めようか。」




