“異常なし”
怪人1-27
「なんだァ?伸一郎。お前、海にでも行ってきたのか?」
相変わらず大きな声で話しかける尾口に伸一郎はなるべくゆっくりと顔を上げた。
そうなのだ。今、伸一郎を苦しめているのは皮膚に赤く残った日焼けの跡。人よりも赤くなり、しかもなかなか痛みの引けない体質なので労働以外では紫外線の暴力に当たらないようにしていたはずなのだ、伸一郎には見に覚えのない日焼けの跡がくっきりと残っていた。
「……海……です、か」
「なんだよ。狐にでも摘まれたような顔をして」
「カノジョと海にでも行ったのかよ、この陽キャめ」
尾口の軽口を背に受けながら伸一郎は答えに窮した。……海になど、行っていないからである。
「……その、尾口先輩。仕事中に聞くことではないと思うのですが」
「なんだよ。お前があらたまって聞いてくると逆に気持ち悪いな」
「いや、その……」
記憶喪失になったことあります?
伸一郎の問いかけに、今度は尾口が黙った。尾口には警備員としての顔と、他にももう一つ顔がある。それは魔法少女の監視であり、かつ管理することであった。もちろん伸一郎の幼馴染である藤原雪もその中に含まれている。尾口は、藤原雪とその周辺を含めた監視員であった。
「いや、あるだろう?」
「え?」
「オレを幾つだと思ってるんだ。大学生の時には記憶が飛ぶくらい酒を飲むのは日常茶飯事だったな」
「えっと、そうではなくて……」
「伸一郎の酒は笑い上戸の泣き上戸だからな。オレが最初に誘ったときも、ひどい有様だったからな……一緒にいたやつも大変だったろう。」
「いや。あの時は本当にすみませんでした。それは、まぁ、そうなんですけど……オレが言っているのは……日常的なやつです」
「日常?」
そこで尾口は初めて伸一郎の方を見た。21歳にしては苦労し過ぎているようにも見えて、華奢な肩の線を見ると尾口の胸はずきりと痛んだ。
「その、オレ……最近記憶が飛ぶことがあって……あ!仕事中は大丈夫なんです!ほんと……なんていうか、ここの事務所から家に帰ると時とか……授業までの時間とか……そういう微妙な時間の記憶がないことがあるんです」
「伸一郎。それは……」
藤原雪のせいなんじゃないか、と言いかけて尾口は唇を噛み締めた。言うべきことではないということは、よく理解していた。
「この日焼けも……いつ出来たものなのか分からなくて……気がついた時には新潟から帰る新幹線の中にいたんです。砂だらけのスニーカーで。オレ、さすがに気味が悪くて」
「……電車で行った先で浴びるほど飲んだんじゃないのか?」
「いえ、酒臭くは、なかったです」
「そんなの自分では分からんだろう。オレはよく歩くぶぶ漬けって言われるぞ」
「尾口先輩。ぶぶ漬けってなんですか?」
ぶぶ漬けしらねぇのか。いやだねぇ令和世代は。
尾口はそう言って伸一郎に背中を向けた。直視する自信がなかったからである。尾口の嘘は極端に顔に出やすかった。
--どうするべきか?
尾口の脳味噌はこの瞬間にフル稼働し始めた。明らかに伸一郎には異常な行動が現れている。伸一郎は海に行った記憶がないと言っていたが、尾口が伸一郎にあげた位置情報の発信・生体ログ付きの腕時計は確かに新潟の海を指していた。位置情報多少の誤差はあるだろうが、ここまで極端な誤差はないだろう。
腕時計に音声記録でもつけておけばよかったのが悔やまれた。
尾口はなるべく明るい声を装った。
「まぁ、そんなに心配なら今度の健康診断お前も受けてみたらいいじゃねぇか。たしか、医者の訊問もあったはずだぞ」
「健康診断……そんなのあるんですか?」
「お前苦学生アルバイトでも社内掲示板くらい見ろよ。ほら、タイムカード押すところにあっただろ?」
「ああ……」
伸一郎は気もそぞろといった返事をした。
--これで、上手くかわせただろうか。
尾口はなるべくゆっくりと振り向いた。伸一郎は顎に指を置いて、健康診断を受けるべきか迷うような顔をしていた。
「……ちなみにアルバイトは条件によって追加費用が掛かるはずだぞ」
「えっ!?……はぁ。世知辛い世の中だなぁ」
ショックを受ける伸一郎には悪いが尾口は内心ホッとしながらいつもの警備員日誌に“異常無し”と記入した。




