もう一人の“伸一郎”
怪人1-26
アパートの外階段は誰かが上がるたびに僅かに揺れた。築年数を重ねた建物特有の脆さがそこにはあった。風が吹けば、どこか緩んだ箇所がギィと不快な音を立てる。そのわずかな揺れや軋みが、このアパートの家賃を相場より幾分か安くしていた。それを理解し、受け入れた者たちがここに住み、日々を過ごしている。伸一郎もその一人だった。
薄暗い廊下を歩く足音が近づく。雪は玄関のほうに視線を向けた。鍵の回る音が静かな部屋に響き、玄関扉のノブがゆっくりと回される。
扉が開く。
その先に立っていたのは——伸一郎だった。
いや、当たり前なのだ。ここは伸一郎の借りているアパートの一室で、雪はそこに押し掛けた居候なのだから。だが、今そこに立っている彼は、普段の彼とはどこか違っていた。
「雪ィちゃん、ただいま」
飄々とした声が静かな部屋に響く。軽薄な響きを持つその声音には、いつもの伸一郎にはない、どこか芝居がかった調子があった。
ケイ——
彼の中に生まれた、もう一つの人格。
雪は、わずかに目を細めた。その表情には、明確な拒絶の色こそ浮かんではいなかったが、どこか不快感を覚えているのが分かる。
ケイはその反応を楽しむように口角を上げた。
「なんだよ、そんな顔すんなって。俺は俺だろ?」
玄関の隙間から入り込んだ夜風が、かすかに雪の髪を揺らした。
伸一郎の顔をした「何か」は、悪びれた様子もなく、靴を脱ぎながら続ける。
「それとも、俺じゃないほうが良かったか?」
軽く肩をすくめる仕草は、冗談めかしているようでいて、どこか探るような色を帯びていた。
ケイの視線が雪を捉える。
雪は、その視線を受け流すように目を伏せた。
この男が何を考えているのか——いや、何をしようとしているのか。彼女は、それを考えることすら煩わしいといった様子で、小さく息を吐いた。
「……好きにすれば?」
短く、突き放すようにそう言って、雪は背を向けた。
それを見たケイは、まるでおもしろがるように唇の端を吊り上げる。
「好きに、ねぇ……」
部屋の扉が、静かに閉まる音がした。
「まぁ、それはそうと頼まれていた怪人の様子を見てきたけど……」
雪がケイの方へ視線を向ける。その視線の冷たさにケイの背中がぞくりと疼いた。
「……そうだなぁ……キスさせてくれたら、教えてあげてもいいよ?」
「……」
伸一郎の顔をしたケイが自然と雪を抱き寄せた。窓の外では長続きする梅雨の音がしはじめる。
「……抵抗しないなら同意とみてよいのかな?」
ケイの指が雪の頬に触れ、親指がそっと唇をなぞる。
魔法少女は、好きなニンゲンとキスをすると魔法が使えなくなるのだ。伸一郎は雪のことが好きだ。ケイは自分の中に眠る伸一郎の秘められた想いを無遠慮にこじ開ける。いや、好きと言う言葉を超えてもはや信仰に近かった。
だが、雪はどうだろうか?
ケイにはそれが分からなかった。なんせ、自分と対峙するときの雪はいつもツレないのだから推し量る術がなかった。だが、それももう分かるだろう。
ケイは雪の顔に近づいていく----が。
不意に唇に冷たい感触が触れる。金属……それも、よく研がれた美しい日本刀の上身がケイの唇を寸前のところで留めていた。すこし間違えば顎か鼻が切り落とされていたかもしれない。
「……雰囲気のねぇ女だな」
ケイの言葉に雪は、いつも通りの無感情さで答えた。
「雪に頼まれてアイツの様子を伺ってきたけど、ニンゲンそのものだよ。周りにとてもよく馴染んでいたなぁ」
ケイは気怠げに壁にもたれながら、手をひらひらと振った。
湿気のこもる狭い部屋には、雨音が絶え間なく響いている。外階段に吹き込んだ風が、古びた窓ガラスを震わせた。
雪は、その言葉を聞きながら微かに瞼を伏せた。
“ニンゲンそのもの”——その表現に、わずかに違和感を覚える。
ケイはしばしばそういう言い回しをする。あたかも自分がその「ニンゲン」の枠組みの外にいるかのように。
「あの様子なら、雪の同級生ももうとっくに取り込まれてるんじゃないかなァ? あ、でも同級生の顔も知らないんだっけ?」
軽い調子の言葉に、雪の指先がわずかに動く。
まるで気にしていない風を装いながら、確実に“何か”を計算している動きだった。
「……二人は知っているわ」
彼女は静かにそう返した。
ケイは眉を上げる。
「じゃあ、あの金髪の外国人のことは雪も知らないんだな」
雪は黙る。
窓の外では、雨が一層強くなった。
雪の目がわずかに揺らぐ。だが、それを見抜ける者はこの部屋にはいない。
彼女は知っているのだ。
A607という存在が、ただの脅威ではなく、もっと根深い“何か”を孕んでいることを。
だからこそ、ケイの言葉の端々を拾い、慎重に情報を選別する。
「雪が怪我したって理由で、向こうから呼び寄せた魔法少女なんだろ? ……厄介なことにならないといいけどな」
その言葉を聞いた雪は、ゆっくりとケイの方を向いた。
「あなたにもそういう感情があるのね」
どこか冷ややかな声だった。
ケイはニヤリと笑う。
「おいおい、これでもオレは平和主義だぜ?」
その言葉に、雪は静かにケイを見た。
表情は変わらない。だが、その瞳の奥には冷ややかな軽蔑が滲んでいる。それは感情というより、判断の結果だった。
「価値がない」
「取るに足らない」
「どうでもいい」
雪の視線は、そう言っていた。
ケイは肩をすくめる。
「本当だよ。そうじゃなかったら……おや」
彼の表情が急に変わる。
「“王子様”が雪に会いたいみたい。残念だなぁ」
どこか芝居じみた口調でそう呟くと、ケイは手のひらで自分の顔を覆った。
一瞬の沈黙。
だが、雪は動じない。ただじっと見ている。
やがて、ケイが顔を上げた。
困惑したように、眠たげな目を瞬かせる青年。
「……あれ。雪ちゃん……?」
不安げに辺りを見回し、夢から覚めたばかりのような寝ぼけた声で呟く。
「オレ……いつの間にか……帰ってたの?」
その声を聞いて、雪はわずかに目を伏せた。
そして、ゆっくりと、
けれど確かな意思を持って、言葉を返す。
「……伸一郎。おかえりなさい」
窓の外では、梅雨の雨が静かに降り続いている。




