A607
怪人1-24
高度危機管理機構センターの監視室は、静寂と不規則な電子音に支配されていた。
壁際には古びたファイルの山が乱雑に積み上げられ、書類の角は黄ばみ、ところどころにコーヒーの染みが浮かんでいる。PCのケーブルは絡まり合い、何層にも重なる埃が時間の蓄積を物語っていた。
「……瑞穂、お前なにを考えているんだ」
「あ、尾口クン」
すでに定位置であるPCチェアに座り、お菓子を食べていた瑞穂に尾口は静かな怒りを滲ませた声色で続けた。
「監視対象に近づくなとあれほど会議で……」
「いやぁ〜ごめん、ごめん。どうにも衝動が抑え切れなくてさぁ」
尾口クン、私の気持ちを考えてよ。素晴らしい研究対象を前にしても、目の前にニンジンをぶら下げで走る馬のような気持ちを!
口角にポテトチップスをくっつけた変態……いや、魔法少女研究について名を馳せた“元”異端の天才を蔑んだ目で尾口は腕を組んだまま見下ろした。
瑞穂はモニターに映る伸一郎と藤原雪の姿をぼんやりと見つめながら、指先でポテトチップスの袋をクシャリと握り潰した。
「いいじゃん、尾口クン。ま、今回は許してよ。顔が見たかっただけなんだし。」
「お前なぁ……」
「いやいや。こういうのが閃きってやつに必要なモノなんだよ」
尾口は無言で瑞穂の肩越しにモニターを覗き込み、冷徹な目つきで映像を見つめた。
数日前に撮られた伸一郎と雪が並んで歩く映像が映し出されている。二人の距離感や動きに、瑞穂の目がどこか楽しそうに輝いている。
「藤原雪もそうだんだけど伸一郎クンってさぁ、不思議な感じがするんだよねぇ。」
「……」
瑞穂は言いながら、自分の顔に手を当て、少し甘ったるい笑みを浮かべた。瑞穂の目がモニターに映る現在の伸一郎に合わせて少し鋭くなった。
「……気のせいだろう。」
尾口はモニターから目を離さずに答えた。
監視端末のモニターには、街の各所に設置されたカメラ映像が映し出され、その一角には伸一郎の姿が並んでいる。
無論、監視カメラによる映像の収集や閲覧には正当な理由や許可が必要だ。監視カメラが設置されている場所であっても、同意なしにその映像を閲覧することは違法なのだが、ここでは許された。ここは“そういう場所”だった。
「いやぁ。それにしても尾口クンが伸一郎にあげた生体ログ時計が役に立っているよ」
「……また“飛んだ”か」
尾口はスクリーンを見つめながら、冷めたコーヒーをすすった。口の中に広がるのは、僅かな酸味と苦味。小さく舌打ちをして、書類の山を適当に押しやる。
隣では異端の天才セヴェリン・瑞穂が慣れた手つきでデータをスクロールしていた。カチャカチャとキーを叩く音が監視室の薄暗がりに響く。
「ここ数日の間、頻繁に意識のブラックアウトが発生しているみたいだね」
尾口は腕を組んだまま、監視映像を巻き戻した。伸一郎は自販機の前で硬直し、次の瞬間には数十メートル先を歩いている。
「またか……」
机の上には監視対象のファイルが何冊も無造作に積まれている。そのうちの一冊を引き抜き、表紙をめくると、そこには伸一郎の顔写真と簡単なプロフィールが並んでいた。
「“異常”が好きなお前にとっちゃ、いい研究材料だな」
「そうねぇ。でも、これは魔法少女の“魔法”とはちょっもと違うと思うんだよねぇ」
「どういうことだ?」
瑞穂はモニターを指差しながら、ゆっくりと口角を上げた。
「魔法少女は現象を操作する。彼女達は“自己エネルギー”を“現象化”させている。でも、伸一郎くんは違う。彼は“記憶を飛ばされている”」
「誰かに?」
「あるいは……彼の中の“何か”によって」
尾口は重い息を吐いた。
藤原雪の異常な治癒能力、ありえない身体能力、そして時折見せる静かな瞳。それが監視対象である理由だ。だが、伸一郎にも“何か”があるのではないか?
「夜麻崎さんは、このことを知ってんのか?」
「もちろん」
瑞穂が端末を操作すると、新たな監視映像がモニターに浮かび上がった。
夜間大学の教室。伸一郎の隣には、夜麻崎が座っていた。初老の大学生は、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、伸一郎の肩を軽く叩いていた。
「夜麻崎さんも察知してるみたい。藤原雪と一緒にいてどうも異変を感じてる。でも、大丈夫。あの人は伸一郎くんを“安心”させるのが上手いんだよ」
「……なるほどな」
尾口はコーヒーメーカーに手を伸ばし、空のカップに黒い液体を満たしながら天井の監視カメラを見上げた。
埃が積もった空間、絡まり合うケーブル、黄ばんだ書類の山。
「おい、瑞穂。そういえば、あっちの国から要請のあった怪人の行方はまだ掴めないのか?」
「A607のこと?」
「番号なんて覚えちゃいねぇよ」
尾口の言葉に、瑞穂はわざとらしく肩をすくめた。真面目なのか適当なのか、こいつの態度はいつも分からない。そんな風に思いながら、マスクを指で軽く弾き、端末を操作する。
「入国時の飛行場の監視カメラには映ってたけど、それ以降の記録はないねぇ」
「なんだ、やる気なさそうだな」
「あー……ボク、人の手垢のついたモノには興味ないんだよねぇ」
「ひどい言いぐさだな」
「っていうか、そもそもA607の能力的に情報が残ってる方が珍しいんだよ」
瑞穂は椅子をくるりと回転させ、尾口の方を向いた。
「開示されてる情報を見たけど、あいつは”名前と顔を一致させた相手”を支配下に置ける。タクシーに乗れば運転手を支配して記録を消せるし、監視カメラの映像を扱う職員の名前さえ分かれば、データの改竄だって簡単だろうね」
瑞穂は画面を指で滑らせ、古い戦場の記録を尾口の端末に転送した。東欧の内戦――その裏で密かに投入された”生物兵器”の実験データだった。
A607は尋問のために戦場の捕虜収容所に投入された。
敵将や重要人物の名前さえ分かれば、意のままに操って機密を抜き取ることができる。狙いはそれだけだった。
だが、戦場の混乱の中、想定外の事態が起きた。
捕虜だけでなく、尋問官や看守、さらには監視役の兵士までもが次々とA607に支配されていった。
支配された者は、“次の標的”の名前を知るために、無意識に尋問を始める。
そして、新たな名前が判明するたびに、支配の輪が広がっていく。
「命令を出す側」が誰なのか分からなくなった。
敵も味方もない。
“名前を知る”というたった一つの条件で、戦場の支配関係が完全に崩壊した。
ある者は味方を撃ち、ある者は敵と手を組み、
もはや誰が敵で、誰が味方なのかも分からない。
収容所は地獄と化し、警護にあたっていた兵士たちは恐怖に駆られて無差別に殺し合いを始めた。
「そして、その混乱の中でA607は逃げたってわけ」
瑞穂は淡々とそう締めくくった。
「とんでもねぇ化け物を作ったもんだな……」
尾口は腕を組み、ため息をついた。
「それにしても、いくら化け物とはいえ制限はあるだろう」
「それがねぇ、どうもうまく機能しなかったみたい」
「……どういうことだ?」
「つまりさぁ、もうどこまでが“A607の支配下の人間”で、どこからが“不支配下の人間”なのか分からなくなっちゃったみたいだねぇ」
尾口は無意識に背筋を正した。
まるで、すでにA607がこの部屋のどこかで、二人を見下ろしているかのように。
「……そんなこと……」
そう呟いたが、確信があるわけではなかった。
なぜなら、この手の怪人の能力は往々にして、想像の範囲を超えていることが多い。
「たとえば?」
瑞穂が、愉快そうに目を細める。
「能力の発動条件とか、距離の制約とか、持続時間とか……」
「ふぅん。じゃあさ、それが明確に把握できる手段はあるの?」
「……」
尾口は言葉に詰まった。
怪人の能力は、既に捕獲された個体であれば実験や分析ができる。だが、未だ行方が掴めないA607のような存在については、あくまで事前に得た情報と、過去の報告を元に推測するしかない。
つまり、本当の制限がどこにあるのかは——
「……分からない、か」
瑞穂がニヤリと笑う。
「そういうこと。だからボクは探す気にならないんだよねぇ。すでに『何かに利用されてる』か、『もう別の顔になってる』かのどっちかだろうから」
尾口は口を引き結んだ。
怪人A607。
そいつは、一体今どこで何をしているのか——
いや、そもそも、今「誰」として生きているのか?
かなり昔に書いたので、辻褄が合ってないとかあってすみません。




