常識
教室のざわめきが少しずつ遠ざかる。
伸一郎は机に突っ伏したまま、ぼんやりと考えていた。
普通、骨折は一晩では治らない。
それは人類共通の常識のはずだ。
魔法少女はその枠に入らないのだろうか?
――いや、たまに魔法少女が怪我を負ったり、最悪亡くなったりするニュースを見たことがある。
だから、魔法少女も怪我はするのだ。彼女たちの魔法は万能じゃない。
でも……雪ちゃんは。
「伸一郎くん、どうしたんだい?」
優しい声が降ってきた。
顔を上げると、目の前には夜麻崎さん。
「夜麻崎さん……」
初老の大学生、夜麻崎。
大手メーカーを定年退職後、学び直すために夜間大学に入学したという、物腰の柔らかな紳士。
彼はなにかと伸一郎を気にかけてくれる。
その優しさが、今日はありがたくもあり、少し気恥ずかしくもあった。
「夜麻崎さんって、骨折したことありますか?」
「骨折か~。僕はないけど、しょっちゅう骨を折る知り合いならいたなぁ。懐かしい。元気かなぁ」
しょっちゅう骨を折る知り合い――なかなかインパクトのある話だが、今の伸一郎には突っ込む余裕がなかった。
「普通、骨を折ったらギブスをしますよね?」
「そうだねぇ。僕の知り合いもしていたよ。お風呂に入るのも大変そうでねぇ」
「お風呂は確かに大変ですよね。オレも子供の頃に骨折したことがあって、三ヶ月近くギブスしてたんですけど……普通、それくらいかかりますよね……!?」
夜麻崎は一瞬考え込み、やがて記憶を探るように視線を上げた。
「まぁ、そうだねぇ」
穏やかな口調でそう言うと、彼は微笑んだ。
「知っている人が骨折でもしたの?」
「ええっと……そうですね。知り合いが……怪我したんですが……なんか、治りが早くて驚いちゃって」
本当のことは言えなかった。
骨折した翌日に治っていたなんて、どう考えても異常だ。
でも、誰かに話さなければ、とても普通の顔でアパートには帰れなかった。
「……いやぁ、案外、治りが早い人っているもんだよ」
「え?」
伸一郎が顔を上げると、夜麻崎はどこか懐かしげに目を細めた。
「僕の知り合いもね、ギブスを嵌めたと思ったら、一週間で嫌になって外しちゃってね。お医者さんに怒られてたよ。も~おかしくておかしくて」
思い出し笑いをする夜麻崎に、伸一郎もつられて笑った。
「あ、あはは……そう、なんですね」
「そうそう。昔の軍隊にも、銃弾を受けても死なない人がいたそうだから、そういう体質の人っているんだよ」
――体質。
そう言われると、そんな気がしてくる。
オレが単純だから、というのもあるが、夜麻崎の語り口があまりにも穏やかで、説得力があった。
そうだ。
そもそも雪ちゃんは魔法少女なのだ。
魔法少女だから、普通の人間とは違う治癒能力を持っているのかもしれない。
あるいは、別の魔法少女が治してくれたのかもしれない。
……それなら、納得できる。
オレは、今まで極力都合よく解釈しないようにしていた“魔法少女”という存在を、自分にとって都合よく納得するために使った。
「夜麻崎さん、ありがとうございます。気持ちが楽になりました」
「お役に立てたならなによりだよ」
夜麻崎は目尻の皺を深くして、ニコリと笑った。
その笑顔はあまりにも穏やかで、あまりにも優しくて――
伸一郎の不安は、夜麻崎の言葉に溶かされるように霧散していった。
◇◆◇◆
夜間大学を出て、駅までの道を歩く。夜風が肌寒く、春の名残の風が上着の裾を揺らした。
さっきまで夜麻崎さんと話していたおかげで、頭が少し軽くなった気がする。考えすぎても仕方がない。雪ちゃんは魔法少女だ。普通とは違うことがあっても……まあ、そういうものなんだろう。
時計を確認すると、21時30分。電車はすぐ来るはずだった。
改札を抜けて、駅のホームへ向かう。ベンチに座ってスマホを取り出し、なんとなくニュースを開いた。魔法少女関連の小さな記事を眺めながら、ふと意識が遠のく。
……気づけば、電車が来ていた。
少し驚きながら立ち上がり、乗り込む。車内はそこそこ混んでいた。適当にドアのそばに立ち、揺れに身を任せる。窓の外の景色が流れていくのをぼんやり見つめながら、ポケットからスマホを取り出した。
ホームで見たニュース記事の続きを開こうとした時、ふと違和感がよぎる。
電車に乗る前、確かに時刻は21時30分だった。
では、今は……?
スマホの画面を点けた。
23時14分。
「…………え?」
手が少し震えた。何かの間違いかと思って、もう一度確認する。画面は変わらない。SNSの通知も、時間通りに流れている。
そんなバカな。電車に乗ったのはついさっきのはずだ。乗った時点でせいぜい21時40分。目的の駅までは30分もかからない。なのに、2時間近く経過している。
慌てて車窓の外を見た。暗い街並みが流れていく。どこだ、ここは——?
伸一郎は駅の構内で寝落ちしていたのか? それとも、電車の中で気を失っていた?
それなら、それを思い出せるはずだ。でも、記憶が抜け落ちている。時間が飛んでいる。
「……はは、寝ぼけてんのか、オレ……」
誰にともなく呟いて、スマホをポケットに戻した。冷たい汗が背中を伝う。
このまま家に帰れば、何もなかったことにできるだろうか。
それとも——。
(この時間のズレは、雪ちゃんと関係があるのか……?)
その考えが脳裏をよぎった瞬間、電車のスピーカーから目的の駅のアナウンスが流れた。
降りなきゃ。
体が重く感じるのは、疲れているからだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。
電車を降りると、夜の冷たい空気が肌を刺した。時計は変わらず23時14分を示している。
——それでも。
家に帰れば、雪ちゃんはいるはずだ。
何事もなかったかのように。




