忘れ物
昼休みのタイミングで、雪の入院している病院に電話をかけてみた。
「昨日の夜に入院した藤原雪って人、いつからお見舞いできますか?」
「……藤原雪さんですか?」
受付の人が少し間を置く。
「申し訳ありませんが、すでに退院されましたよ」
「……は?」
思わず聞き返す。
「え、でも骨折かなんかで入院してたんじゃ?」
「詳しいことはお答えできませんが……朝には退院されていますね」
骨折って、一晩で治るもんなのか?
……いやいや、そんなわけないだろ。
嫌な予感がしつつも、仕事が終わったら夜間学校に向かうつもりだった。
だが、その前に教科書を忘れていたことを思い出し、一度帰宅することにした。
アパートのドアを開けると、そこにいるはずのない雪がいた。
――いや、正確には「いること自体はおかしくない」。
雪は鍵を持っているし、オレの部屋に出入りすることも珍しくない。
でも、昨日「入院する」と言っていたのに、もうここにいるのは――どう考えてもおかしい。
「……雪ちゃん?」
オレが声をかけると、雪は振り向き、手に持っていた小さな袋をすっと隠した。
その動きに違和感を覚えたオレの視線が、隠される前の袋に向かう。
――ギブス?
袋の端から覗いた白い破片を見て、幼い頃の記憶がよみがえった。
ジャングルジムのてっぺんから飛び降りて骨折したあの日。石膏で固められたギブスを「大砲みたいだ」と振り回して怒られた子供の頃のオレ。
今のギブスはもっと軽く、グラスファイバー製になっていると聞いたことがある。
でも、それにしたって――
「雪ちゃん……それ、骨、折っちゃったの……?」
オレが恐る恐る尋ねると、雪は少しの間だけ黙った。
そして、何事もなかったかのように微笑む。
「……もう、大丈夫だよ」
まるで、それが当たり前のことのように。
「そっか……」
オレはそれ以上、何も言えなかった。
教科書、教科書――。
部屋の机からノートを引っ張り出す間も、背中に雪の視線を感じる。
気のせいだろうか。
「……仕事、終わったばっかでしょ? ちょっと休めば?」
雪が声をかけてくる。
「いや、大丈夫。すぐ戻るし」
言葉が妙に急ぎがちなのが、自分でもわかった。
何か話を続けるのが嫌で、オレはそそくさとバッグに教科書を詰めた。
「気をつけてね」
「……うん」
玄関のドアを閉める直前、ちらりともう一度、部屋の奥を振り返った。
キッチンに立つ雪は、いつもと変わらないように見えた。
けど――
さっきまで折れていたはずの腕で、何事もなかったかのように包丁を握っている。
きっちりとした角度で食材を刻むその手元は、むしろ以前よりも滑らかだった。
まるで、元より折れてなどいなかったかのように。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
オレはその感覚を振り払うように「気のせいだ」と心の中で言い聞かせ、急いで家を出た。
階段を降りながら、ふと自分の呼吸が浅くなっているのに気づく。
オレ……雪のことが怖い、のか?
自問して、すぐに頭を振る。
そんなわけない。
ただ……
明かりのついた窓の向こうで、雪がまだこちらを見ている気がしてならなかった。
けど、それもたぶん――気のせいだ。
……だよな?
病院に電話しても個人情報は教えないと思うんだけどな。