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腐れ縁

「さっきの人、尾口先輩の知り合いの方ですか?」


伸一郎が尋ねると、尾口先輩は少しだけ間を置いた。


「知り合いというか……」


腐れ縁だ。


それ以上は何も言わない。


湿った風がロビーの奥まで入り込み、冷房の効いた室内に微妙な温度差を生む。

どこか生ぬるい空気の中、雨に濡れたアスファルトの匂いが微かに漂ってくる。


そういう割には、ずいぶんと親しげな口振りだったけれど……。


伸一郎は手元の来館者リストに視線を落とした。ここを訪れる人間は、それほど多くない。


上のオフィス階で働いているのは10数名程度。その人たちはすでにIDキーを持っているから、リストに名前を書く必要はない。

それ以外の来館者は、この受付で名前と身分証明書の提示が義務付けられている。


オフィス街の一等地にある割には、この建物を訪ねてく人間は少なかった。まぁ“高度危機管理センター”なんて名前のところに営業に来る人間もそうはいないだろう。


湿った空気がじっとりと肌にまとわりつく。

雨脚はさっきより強まっているのか、ロビーの外ではアスファルトに水が跳ねる音が微かに響いていた。

長い梅雨の時期、止むのか止まないのか分からない雨は、ただ景色を鈍く滲ませるばかりだった。


たまにニュースで見たことのあるような偉い人が来ることもあったが、大抵そういう人は秘書が代わりに名前を書く。

必然的に、受付のリストに記される名前はいつも似たようなものばかりだった。


――ならば、どうしてだろう。


「セヴェリン・瑞穂」

その名前に、どこか見覚えがある気がする。


初めて見た気がしなかった。

どこかで、どこかで――。


伸一郎は首を傾げながら、ボールペンを指で転がした。思い出せそうで、思い出せない。既視感の正体はぼんやりと霞がかかっていて、手を伸ばしてもつかめない感覚だった。


そのまま考え込んでいたが、不意に尾口先輩の声が現実へと引き戻した。


「伸一郎。オレは見回りに行ってくるぞ」

「え? 随分早いですね」


まだ交代まで40分以上ある。いつもなら「サボるなよ」と小言を言いながらも、時間ギリギリまでは持ち場にいるのに。


「仕事なんて、さっさと終わらせたいだろう」


梅雨の湿った空気とは違う、妙な緊張感が尾口先輩の声に滲んでいた。

珍しいな、と思うよりも先に、尾口先輩は続ける。


「交代のやつが来たら、先に帰ってていいぞ」


そう言うなり、伸一郎の返事も聞かずに警備室を出ていった。


受付のガラス越しに、尾口先輩の背中が一瞬だけ見える。やけに足早で、どこか落ち着かない歩き方だった。


――何かを、追いかけるように。

あるいは、何かから逃げるように。


それとも。


じわりと、伸一郎の胸の奥に得体の知れない不安が広がり始めていた。

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