ポケットの中で鳴るのは
春の気配が近づいているはずなのに、夜風はまだ肌を刺すように冷たい。
青年は、軽すぎる買い物袋を片手にぶら下げながら、もう片方の手をポケットに突っ込む。指先が触れたのは、わずかな温もりすら感じさせない冷え切った布地だった。
(……相変わらず、寒いな。)
それは気温のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか。
息を吐きながら、ふと思う。
——身内がいない。
かつて「家族」と呼べる存在は確かにいた。けれど今はもういない。記憶の中で、彼らの面影は次第に薄れ、代わりに刻まれたのは、孤独の中で生き抜く術を学んだ日々のことだった。
必要なものは、すべて自分の手で掴み取らなければならなかった。誰も助けてはくれない。頼れる言葉も、支えてくれる腕もない。ただ、己の力だけが頼りだった。
そうして生きるうちに、気づけば「笑い方」すらも変わっていた。
無理にでも笑うことを覚えた。そうしなければ、やっていけなかったから。
——この国は豊かだという。
確かに、表向きはそう見える。誰もが、必要なものを手に入れられる。贅沢すらも、手を伸ばせば届く。
だがその裏では、かつての栄光を手放せずに足掻く者たちが、影の中で必死に生きている。社会の「隙間」に落ちてしまえば、這い上がるのは難しい。そこに落ちかけて、何度も爪を立てて耐えた日々を、彼は忘れたことがなかった。
「……もう少し、楽な道もあったんだろうな」
ふと、独り言のように呟く。
選べなかったのではない。選ばなかったのだ。
目の前に差し出された道を進むしかなかった。疲れても、泣きたくなっても、立ち止まることは許されなかった。だから、無理にでも「これが俺の道だ」と思い込んだ。そうやって、今日まで生き延びてきた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
舗装された道を歩く人々を羨ましいとは思わない。それよりも、自分の足で未舗装の道を踏み固め、進んでいくことのほうが、誇らしくすら感じられた。
「……はは、我ながら、バカみたいだな」
前を歩く人々をちらりと見やる。誰もが何かを抱え、何かと戦いながら歩いているのだろう。隙間のない人生なんて、きっとどこにもない。
(……あ〜あ、お金が降ってこないかな……)
そんな馬鹿げた願いを心の中で呟く。
ポケットの中で、わずかに残った小銭がチャラリと鳴った。その音が、ほんの少しだけ、彼の歩みを肯定してくれた気がした。