黒い白衣
来館者リストに目を落とすと、そこには「セヴェリン・瑞穂」と記載されていた。
その名前を確認しながら、提示された身分証明書の顔写真をちらりと見比べる。
湿った空気がじわじわと肌に張りつく。外は梅雨特有の霧雨が降っているのか、扉が開くたびに、湿気を孕んだ生ぬるい風がロビーに流れ込んでくる。
伸一郎は何気なく視線を上げ、目の前の来館者を改めて観察した。
明るい茶色の髪を一つに束ねている。
黒いコートを着ているのかと思ったが、よく見ると――白衣? いや、黒い白衣だ。
黒い白衣?
この建物に、白衣が必要な部署なんてあっただろうか。
外の湿気のせいか、その黒い布地が妙に鈍く光って見える。雨粒がついているわけでもないのに、どこか水を弾くような質感だった。
伸一郎は疑問を抱いたが、それを口に出すことはせず、身分証明書をセヴェリン・瑞穂に返した。
「あ、どうもどうも」
低くもないが、高くもない、妙に曖昧な声だった。
男か女か――見た目にも、声にも決定的な手がかりがない。
名前の響きも相まって、目の前の来館者は性別不明な雰囲気を漂わせていた。
「おぐっち、おひっさー」
馴れ馴れしい口調で呼びかけられ、尾口先輩はあからさまに顔をしかめた。
「……こちら、入館許可証です。お帰りの際は受付までご返却ください」
伸一郎が手渡そうとするよりも先に、尾口先輩がぐいっと押し付けるように許可証を渡す。
「なんだよー。寂しいなぁ」
セヴェリン・瑞穂は抗議するように声を上げたが、尾口先輩はまるで聞いていないかのように、すでにチェックリストへと視線を落としていた。
「尾口先輩とお知り合いなんですか?」
伸一郎は、目の前の来館者に声を掛けた。
「そうそう。おぐっちとは“顔見知り”なんだ」
セヴェリン・瑞穂は、軽い口調で言う。
「仲良さそうに見えますけど」
「どこがだっ!」
背後から尾口先輩の殺気を感じる。
伸一郎は苦笑しながら、ちらりと振り返った。
「はじめてお顔を拝見しましたけど、エレベーターの場所わかりますか?」
「わかるわかる! ありがとうね、伸一郎くん」
セヴェリン・瑞穂は、当たり前のように名前を口にした。
「いえいえ……」
伸一郎は曖昧に返事をしながら、その背中を見送る。
尾口先輩も、知り合いの人ならもっと愛想良くすればいいのに。仕事中は真面目なんだよなー。
伸一郎はそう思いながら、手元の来館者リストに視線を落とした。
……いや、待てよ。
オレ、あの人に名乗ったっけ?
なんで名前を知っているんだろう?
じっとりとした空気が、背筋を冷たく撫でる。
無意識に小首を傾げながら、受付から少し顔を出してセヴェリン・瑞穂の背中を探したが、ちょうどエレベーターの扉が閉まるところだった。
廊下に微かに湿った足音が残る。
外は小雨。だけど、その人物だけは、まるで一滴も濡れていないように見えた――。