夕暮れの狭間で
仕事を終え、事務所でタイムカードを押すと、伸一郎はいつものようにスマートフォンを取り出した。
空はまだ沈みきらず、オレンジ色の夕焼けが街のビルに長い影を落としている。その影が、まるで自分の足元を飲み込むように伸びていた。
――今のうちに、かけるか……。
夜間大学の授業までには、まだ少し時間がある。
こんな時間なら、養父も仕事を終えて家にいるだろう。
伸一郎は、古びたスマホの画面をスクロールし、“雪の養父”の番号を探す。迷うように指を止めた。
通話ボタンの上で、指が震える。
本当はかけるのが怖い。怒られるだろうか、呆れられるだろうか。自分の娘が男の家で一晩過ごしたと知ったら、冷静でいられる親は、まずいない。
――でも、オレは何もやましいことはしていない。
……はずなのに、心の奥が妙にざわついていた。
伸一郎は意を決して通話ボタンを押した。
数回のコール音が鳴り、次第に低く落ち着いた声が応答する。
『……もしもし』
「……お久しぶりです、伸一郎です」
『ああ、伸一郎くんか』
昔と変わらない穏やかな口調だった。
だが、そこに“感情”がない。
機械的な返答に、胸の奥が僅かに冷える。
「すみません、急に。雪ちゃんのことで……」
言葉を切った瞬間、静寂が落ちた。
それは、不自然なほど長い沈黙だった。
『……ああ、雪のことか。元気にしてるのか?』
「はい、えっと……それで……」
伸一郎はできるだけ冷静に説明した。
雪が突然自分の家に来たこと、昨夜帰ろうとしなかったこと、仕方なく泊めたこと、そして今朝には、何事もなかったように料理を作っていたこと。
すべて事実のはずなのに、どこか現実感が薄い。
『そうか……』
短い返答だった。
予想していた怒りも、問い詰めもない。
「すみません、もっと早く連絡するべきだったんですが……」
『いや、別に気にしてないよ』
気にしていない――?
思っていた反応と違う。
むしろ、突き放されたような冷たさすら感じる。
「えっと……雪ちゃんを……その、迎えに来ていただけるんですよね?」
養父は少し間を置き、ゆっくりと口を開いた。
『ああ……いや、全て雪に任せていることだから』
「え?」
思わず聞き返す。
『しばらく好きにさせてやってくれ』
「でも……それって……」
『ただし』
突然、電話越しの声が、すっと低くなった。
『間違いだけは犯すな』
心臓を強く握りつぶされるような感覚に襲われた。
「それは……男女の仲になるな、ってことですか?」
『それもあるが……まあ、そう思っておけばいい』
違和感があった。
はぐらかすような言い方。
まるで何かを“隠している”ような……。
『じゃあ、頼んだよ』
一方的に通話が切れた。
スマホの画面が暗くなり、伸一郎は無意識に息を詰める。
――なんだ、この感じ……。
ただの親心なのか?
それとも……。
街の夕闇に、無数のネオンが揺れていた。
その光は、まるで何かを見透かすように、不気味なほど鋭く瞬いていた。
胸の奥に、釘のような棘が残る。
それを無理に押し込むように、伸一郎はスマホをポケットにしまった。