仕事の話
「……“藤原雪”は間違いなく伸一郎のところにいる。」
尾口がそう告げると、電話の向こうの声は楽しそうに弾んだ。
『ほほーん。なら、まぁよかったんじゃない? 所在不明よりマシでしょ』
軽い口調に、尾口は無意識に舌打ちしそうになった。
「よかった……ねぇ」
言葉を転がしながら、ふと脳裏に浮かぶのは、弁当を食べながら無邪気に笑っていた伸一郎の姿だった。
あいつは何も知らない。
だからこそ、あんな顔ができる。
何とも言えない気分を振り払うように、尾口はポケットから電子タバコを取り出し、一口吸う。
煙がくゆりと立ち上るのを眺めながら、まだ切らずに話を聞くことにした。
「そもそも魔法少女の身辺は“家庭教師”たちで警護すんじゃなかったのかよ」
『ああそれねぇ……』
電話の向こう側の声が、少し考えるように唸った。
『向こうから提供されたA607の情報が正しければ、こっちの顔と名前が奴さんに知られた時点で、その人間は彼の世界に“取り込まれて”しまう。彼がどこまで人間を支配できるかは分からないけど、政府のデータベースに入り込めば魔法少女たちの情報を得るなんて──』
尾口はその言葉の意味を噛みしめながら、煙を吐いた。
「魔法少女の個人情報は政府の最高機密扱いだが、それでも……A607が相手では完全には守り切れる保証はないな」
『だから、藤原雪も顔や名前を隠し、無関係な一般人の家に身を寄せるしかなかったんじゃないかなぁ』
敵に悟られぬよう顔も名前も伏せ、監視カメラに映るような場所を避け、無関係な一般人の家に転がり込む──それほどに、藤原雪は怪人との戦いに全てを注ぎ込んでいる。
尾口の眉がわずかに上がる。まるでそれを見ているかのように、電話越しの悪友は問いかけた。
『ん?尾口クンはなんか言いたげだねぇ』
「瑞穂。お前は若い娘さんになにさせてんだかって思わんのか?」
電話の向こうで、一瞬の沈黙。その後、瑞穂はくつくつと笑い出した。
『おぐっちは繊細だなぁ』
「……うぜぇ」
『怪人と魔法“少女”を戦わせるなんてかわいそう、って話? そんな議論、もうとっくに無意味になったんだよ。』
煙のような言葉だった。あまりに軽く、しかし逃げ場がないほどに重い。
『怪人を倒せるのは魔法少女だけ。これはもう決まりきった理屈でしょ? だったら、戦わせる以外に選択肢なんてないじゃん』
電話越しに聞こえる声には、迷いが一切なかった。
尾口は無言のまま電子タバコを口に咥え、ゆっくりと煙を吐き出す。本当に、それしか道はないのか。だが、そんな問い自体、もう誰も口にしなくなって久しいのだろう。
『まあまあ。そもそも藤原雪も、こうなることを望んでたのかもしれないよ?』
「は?」
『つまりさ──藤原雪も、伸一郎クンのことが好きなのかもっては・な・し♡』
急な話の転換に尾口はついていけずに頭を抱えた。
「なんだよそれ……」
『ええ〜藤原雪と伸一郎って子は幼馴染なんだろ?それに最強の魔法少女とはいえ藤原雪は女子高校生だよ〜?それくらいの年頃にはそういうことの一つや、二つあるものでしょう』
「……お前、その言い方ジジイくせぇぞ」
呆れたように言いながらも、尾口の脳裏には藤原雪の姿が浮かぶ。
怪人退治を終えた直後──
腰までかかる長い黒髪、柳が揺れる日本画から忍び足で抜け出てきたような白い横顔。
そして、血に濡れた日本刀。
……あれを“普通の女子高生”と呼ぶのは、少々無理がある。
『おーい、おぐっち?聞いてるー?』
「……うるせぇな。」
雑念を振り払うように電子タバコをくわえ、深く吸い込む。煙と一緒に余計な思考も吐き出しながら、尾口は静かに目を細めた。
『まぁ。そういうことなんで、しばらくは様子見ということでお願いしますよ』
「そんなくだらねぇことで電話してくんな」
『あー、ひどい!同期だからってそんな暴言を──』
「同期だから言ってんだよ」
乱暴に通話ボタンを押し、ツー、ツーという無機質な音が鳴るのを聞きながら、携帯を雑にテーブルへ放る。
ふっと息をつき、見上げた低い天井に向かってもう一度煙を吐いた。
やけに苦い味がした。