尾口先輩
先に弁当を食べ終えた伸一郎が、受付の交代へと向かう足音が響く。尾口はその背中を無言で見送りながら、リモコンを手にテレビのチャンネルを切り替えていた。
伸一郎がドアを開け、そして静かに閉まった瞬間、尾口の携帯が震えた。
その震えが、まるでこの一瞬を待っていたかのように耳に響く。
画面に表示された名前を見た尾口は、思わず眉をひそめた。面倒臭そうにため息をつきながらも、結局は通話ボタンを押す。出なければ、後でさらに面倒なことになりそうだとわかっていたから。
『おぐっちー?元気してるー?』
電話越しに響いた声が、あまりにも無邪気で明るすぎて、尾口の気分を一瞬で乱す。
「……電話越しでもうるせぇやつだな」
つい口をついて出た言葉に、相手は全く気にする素振りも見せず、むしろ楽しそうに返してきた。
『えー?もう、そんなこと言わないでよっ』
その甘えたような口調に、尾口は不快そうにテレビの画面に目を戻す。だが、心の中で彼の焦燥がじわじわと広がっていくのを感じていた。
「用がないなら切るぞ。仕事中だ」
尾口の声にはいつも以上の冷徹さが滲んでいた。
相手はその冷たい響きを察したのか、少しだけトーンを落として言った。
『仕事って、どうせカモフラージュのほうの話でしょ?』
あくまで楽しげだが、どこか知ったような口調に、尾口は思わず顎を引き、背中を丸めた。
その無神経さに、心の中で不安が広がり始めていた。
「仕事は、仕事だ」
尾口は言い放ちながら携帯電話を少し遠ざけて、指で顎を擦った。コイツのペースに合わせているとこちらの調子が狂う。事実、電話越しの相手は“狂っている”
と言っても相違なかった。
沈黙が続く。電話越しの相手は、その空気を感じ取ったのか、しばらく黙っていたが、ついに口を開いた。
『はいはい。ところでおぐっちー、昨日の件、どうなったの?』
その何気ない一言で、尾口の表情が硬直する。
この瞬間、尾口の中で「切る」という言葉が、何も言えずに消えていった。
この場合、尾口はこの電話越しにふざけた調子でいる相手--セヴェリン・瑞穂--に伸一郎と、藤原雪について報告をしなくてはならない義務を負っていた。それが、尾口の『本来』の仕事であった。無意識に肩がこわばり、手が少し震える。
「……お前、しつこいな」
尾口は、かろうじて冷静を装いながら、心の中でひときわ大きな波が立つのを感じていた。