麻婆豆腐
先に公開している『魔法少女は傅かせない』の流れを汲んでいますが、読んでいなくても大丈夫なようにしたい気持ちはあります。
「手軽さ」か「自炊」か──それが問題だ。
スーパーの惣菜コーナーの前に立ち尽くす青年。どこか気まずそうに足を止め、視線だけをパック詰めされた惣菜たちに向ける。
ガラスケースの向こうには、まるで**「こっちへ来い」**と囁くかのように、美味そうな揚げ物がずらりと並んでいる。チキンカツ、唐揚げ、コロッケ、ハムカツ、エビフライ──どれもこれも、黄金色の衣をまとい、光を浴びて輝いていた。
(これはもう、飯テロだろ……)
ゴクリと喉が鳴る。今日の夕飯をどうするか、ずっと考えていたのに、ここへ来て揺らぎ始めていた。
「今日は楽して帰ろう」
そう決めていたはずなのに、なぜか心の奥で抵抗感が生まれる。
──その時、脳内に警告音が鳴った。
「でも、うーんなぁ……今月は……」
視線をそっと下げ、ポケットの中から財布を取り出す。開いてみれば、しわくちゃの千円札が一枚と、小銭が数枚。給料日まであと数日。食費の残額は、なるべく抑えておきたいところだ。
(……これ、本当に安いのか?)
パックに貼られた値札を眺めながら考える。確かにコンビニ弁当よりは割安かもしれない。でも、惣菜だけ買っても、結局ご飯や味噌汁は自分で用意しなきゃいけない。そう考えると、手軽なようでいて、意外とそうでもない気がする。
「いや、でも揚げ物って自分で作るとめんどくさいし……」
小さく呟いてみる。油を大量に使うし、後片付けも面倒だ。そもそも、俺の住んでる安アパートの狭いキッチンでは、まともに揚げ物なんてできる気がしない。
──そんな時、ふと脳裏に浮かんだ光景。
(……そういえば、冷蔵庫に萎れた長ネギがあったっけ。)
最後に見たのは二日前だったか。あれ、まだ使えるかな? 白い部分は大丈夫そうだったけど、青い部分は少しくたびれていた気がする。もうちょっとシャキッとしてたら、いい感じに映えそうだったのに。
(まあ、麻婆豆腐にすれば、誤魔化せるか。)
自分に言い聞かせるように、頭の中で手早く調理工程を組み立てる。
「ん、豆腐とひき肉はあるな……」
スーパーに来る前に確認してきたから間違いない。ひき肉は少し前に特売で買って冷凍しておいたし、豆腐はまだ賞味期限内だ。冷蔵庫に眠るそれらを思い出すと、不思議と「こっちの方が合理的だ」と思えてくる。
(よし、今日は麻婆豆腐にしよう。)
手を伸ばしかけていたチキンカツからすっと引く。自炊を選んだことで、ほんの少しだけ「勝った」気がした。
だが、ここでひとつ問題が生じる。
──揚げ物、食べたかったな……
自炊に傾いた気持ちとは裏腹に、胃袋はまだ惣菜コーナーの誘惑を引きずっている。
一歩、また一歩とその場を離れながらも、背後にある惣菜の気配を感じずにはいられなかった。
ふと、足が止まる。
(……せめて一品くらい、追加してもいいんじゃないか?)
一瞬、理性がグラつく。いやいや、さっきまでの決意はどこにいった。ここで買ったら「自炊するから節約!」の大義名分が崩れてしまう。
しかし、チキンカツのパックが、まるで「お前、本当にそれでいいのか?」と言わんばかりに、そこに鎮座しているではないか。
「……いや、ダメだダメだ。」
グッと拳を握る。振り向いたら負けだ。ここで惣菜を買ったら、完全に誘惑に屈したことになる。
「……まあ、揚げ物はまた今度だな。」
無理やり自分を納得させると、ようやく足を前に出した。一度決めたら、もう振り返らない。
スーパーを出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
「お、寒……。あー、でも麻婆豆腐にはちょうどいいな。」
寒い夜に、熱々の麻婆豆腐。ひと口食べれば、ピリッとした辛さが体を温めてくれるはずだ。
そう考えると、さっきまでの未練もどこかへ消えていった。
「よし、帰るか。」
ポケットに手を突っ込み、スーパーを後にする。
──だが、帰り道。
「……やっぱり、唐揚げ一個くらい買っとけばよかったか?」
そんな考えが、ほんの少しだけ頭をよぎったのだった。
伸一郎くんは揚げ物が好き。