EP#22「主従」
タイル張りの床に、熱い湯がとめどなく降り注いでいた。
汗と戦塵を混じらせたそれは、銀色の排水溝へと迷いなく流れ続ける。
立ちこめる蒸気の中、仁王立ちする褐色の影。ナッツのような肌の上を、幾筋もの湯が地図のような背筋をなぞり、血管の浮かぶ上腕を伝い落ちてゆく。
滴る長髪をひと掻きし、濡れた黒髪が首筋を打った。
戦場でシャワーをこうして浴びれる機会は少ない。
凛々しい目元に、高い筋の洟先を伝い、顎には湯が滴る。
頭上のシャワーヘッドを仰いだ瞬間、唇がわずかに開き、喉が鳴った。
飲みきれぬ湯が口元からあふれ、両の掌で顔を拭いながら、再び湯の熱を受け入れる。
百八十センチを優に超える背丈の男は、いつまでも飽きることなくシャワーが与える熱に身を沈め続けていた。
背後の蝶番がきしむ音が、微かに混じる蒸気の揺らぎを破る。
同時に、褐色の男は胸元の高さにある石鹸台に置かれた回転式拳銃へ手を伸ばしたが、次に聞こえた、ぺたりとタイルに触れる素足の音に、動きを止めた。
「チェカ、シャワーまだ終わらないの」
女が男の真似をした声、男が女の真似をした声とも違う、声変わりをすっぽかしたまま、どこか拗らせたまま時を過ぎた、熟れた苺のような声だった。
「僕、待てないから来ちゃった」
ガキの声が、大人びた息遣いで言葉を発しているアンバランス。
チェカが背中越しに視線を向けると、まるで日光など一度も浴びたことは無いと言い張る白い肌、グレイの頭髪が蒸気越しに見えた。
彼の甘い顔立ちの姿は、右手にタオルを手にしてはいるものの、チェカを前に白磁の裸体を何一つ隠すことなく背後に立っていた。
「シータ、来い」
一言だけ。
その命令に、迷いはなかった。
シータ・オービエは言葉を受けると、そのまま彼の背へ手を伸ばし、ひしとしがみついた。
チェカの背丈より頭一つ分ほど小さいその躰が、彼の背を伝って流れる湯を浴びている。
頬をチェカの背に寄せながら、肌の温度を確かめるように目を閉じた。やがて薄い桃色の唇が開いた。
「この前のロンギスクァーマに、今度はマルティナヴィスとスクレロリンクスが加わった。こんな混成……どう見ても、チェカ抹殺部隊だよ」
チェカはゆっくりと身体を向けると、シータの後頭部に手を添え、その小さな体を胸元に抱き寄せて見下ろした。
頬を伝い、顎から落ちる湯が、まるで雨のように白磁の肌を濡らす。
「肝の抜けた本隊とは訳が違うだろうな」
一言目には常に不敵な言葉を放つ彼が、今回は違った様子を見せていた。
シータの瞳は、見上げる彼の顔から片時も離れなかった。
「あのロンギスクァーマ、あの時やっておけばよかった……僕ならできた」
「俺たちは、ちまちまと数減らしに徹すればいいと言うのか」
戦力が不完全なまま敵が攻勢をかけぬなら、それはただの時間稼ぎに過ぎない。その間に、さらなる戦力を呼び寄せるだけの延命行為だ。
勝利とは敵の決意を叩き折る事にある。
「違う……アナイアレイターを餌に一網打尽にするのがいいと思う。でも、ロンギスクァーマがいなくても、あいつらはアナイアレイターに寄ってくる」
シータの瞳には薄く震えるような不安がにじんでいた。
「チェカ、何を狙ってるの?」
チェカの黒い瞳が、細く狭まった。
片方の口角だけが、わずかに吊り上がる。
「今までと同じだ『これで充分』と俺達を過小評価した抹殺部隊に、現実を見せつける」
チェカは続けた。
「その後で、更に増強した抹殺部隊も同じ目に遭わせる。そして、不可能であると骨の髄まで思い知らせる」
チェカの声には熱があった。
それは怒りでも野心でもない、ただただ、冷たい意志だった。
「それが、俺の勝利だ。お前の故郷であるディタイという場所で、築くべき現実だ」
シータの目には、黒い炎が灯っているように見えた。
瞳の奥で揺れるそれは、どんな熱よりも静かに、そして深く燃えていた。
「シータ、お前の本気を奴らが見る時は、もう生きて帰れないと知った時だ、ロンギスクァーマただ一体のみに見せるものではない」
その声は優しくもあり、突き放すようでもあった。
チェカの右手が、シータの頭を抱くように撫で、ゆっくりと下腹部へと下ろしていった。
グレイの髪に覆われた頭頂部は、押し下げる手になんの抵抗も示さない。
「……出し惜しみしないでね、チェカ」
半開きの薄桃色をしたシータの唇の奥、赤い舌がゆるく覗いていた。
その熱が何を求めているのか、答えはもう、二人の間にしかなかった。
奴らの陣地とは対向側にあたる郊外の小さなロッジ。
戦火がディタイを覆い尽くしても、山間のこの一帯だけが、銃弾一つ掠めることはなかった。
のどかな風景に鎮座する歪なシルエット、ロッジの屋根より遥かに巨大なリリエンステルヌスとレイグウォンの二体だけが不気味な影を草地に落としている。
仮にも戦地であるというのに、チェカはティアドロップのサングラスをかけ、上裸にカーゴパンツという格好で、ポーチのロッキングチェアに身を預けていた。
僅かにフレームが歪んでいるのは、倒れた敵兵の横に転がっていたのを拾って得た代物であったからだ。
傍らには時折ノイズを鳴らしては途切れて沈黙を告げる携行無線機が一台。
一陣の風がチェカの黒い髪をいたずらに揺らし、唇にかかると息をふっと吹いてどかした。
するとロッジのドアが開き、中から上着の前ボタンを閉めながらシータが現れた。
顎の疲れか、口元の端に意図せず垂れた涎を親指の付け根で拭っている。
細い肢体に似合わないドライバースーツを上下に着込み、無線から合図があればいつでも乗り込める恰好でいた。
シータはチェカの隣にスツールをずらして腰を下ろした。
春の訪れが近い事を鳥の囀りは示していた。
陽の下で、彼の肌は光を反射するかのようにきめ細やかさを主張していた。世界中の誰であろうと手に出来ない遺伝子の妙は、街路に立てば周囲全ての女性が羨望するしかない美しさを持っていた。
「ねぇチェカ、聞いた? アナイアレイターのドライバー、僕と同じくらいの歳なんだって。忍び込んだ兄妹がそう話しているのを聞いたって」
「聞いてるさ、連中は男女四人という事も」
「男女四人って、なんだか呑気だよね」
「俺達が言える事か?」
「そうだね」
二人の間にある静寂は、沈黙では無かった。
「そのドライバー、強いのかな。ハーストイーグルの奇形種を割り当てられる程なら相当だよね」
「どうやら噂では、アピコンエンギ隊をやった奴ららしい」
「アピコンエンギ隊……ピクが死んだの!?」
フォルスラコスの駆体特性はエスピリト隊にとって天敵に等しい相性である為に、シータにはピクが負けるイメージを一片たりとも抱けていなかった。
「噂の話だ、奴が死んで残念か?」
「そんな事無い、アイツ嫌いだ」
数年前、合同演習の機会に鉢合わせた時、シータはピクから撃破判定を叩きつけられていた。
「もし噂が真実なら、生易しい相手ではないのは確実だな」
チェカは、胸元に下げるペンダントの位置を整えた。
真鍮造りの中には、失われた妻子の写真が収められている。
シータは、表情を変える事無くロッキングチェアでくつろぐ彼を見続けた。
「チェカ、不安なの?」
シータは何気なしに放ったこの言葉は失言であったと、言い切ってしまった直後に自省した。
チェカは傍らのスツールに腰掛けるシータが着込むジャケットの胸倉を掴み、サングラスの奥深くにある瞳が見える程に近くへと顔を寄せた。
「弱い相手ほど、殺しの選択肢は多い。強くなればなるほど、選べる手は限られてくる。最も犠牲の少ない殺し方を俺は選ばなきゃならない。そして答えは結果だけで決まる……何を選ぶべきか考えてるだけだ」
彼の気迫にシータは慄いたが、直ぐに真顔になった。
チェカは言葉の後に、シータを解放した。
「口数、多いよ」
チェカは大きく息をついて、口を開く事は無かった。その様子を見かねたシータは悪戯に笑みを浮かべ、人差し指を下唇に当てた。
「もう一回、してあげようか」
彼に意思を訊ねて、沈黙を答えとする時はイエスを意味する事をシータは知っている。
チェカの広げた足の間にシータは屈んだ。
息が漏れ。
熱が篭り。
鼓動が打つ。
時折、シータは話しかけた。
「このロッジ、その内買おうよ」
彼の答えを沈黙にする為に、わざと弱い場所を狙う。
木漏れ日が当たる唇の端から、舌が出ては引く。
しばらくが過ぎて、チェカは大きく息を漏らしてグレイの髪を両手で掴んでいた。
「ねぇチェカ」
「……なんだ」
「まだチェカが僕にも見せていない技、今度の敵に披露してあげてよ」
シータのはだけた上着から覗く、色素の薄い素肌には上気した赤が見えた。
チェカは問いに沈黙を続けたまま、シータの顔を胸の上に横たえさせた。
「全員だ、ディタイに踏み込んだ奴らは皆殺しにして生きて返さない」
その目には、サングラス越しに色濃く意志の輪郭を象っていた。




