EP#19「航路」
荒涼としたアタクマ砂漠を後にし、キルリストの命令に従い、ロナ、キルスティ、オリバーの三人は直線距離にして一万二千キロメートル先の港湾都市ディタイへ向けて巡行を開始した。
ロナはキルスティが駆るマルティナヴィスの補助席に座り、オリバーはスクレロリンクスを駆動させ編成を組んで飛行している。
二体の駆体は戦略上の敵勢力圏を避けるため、十二の紆余曲折したポイントを結び総飛行距離一万七千キロ、四十八時間にわたる長距離飛行を計画し、休憩を挟みながら平均時速六百から九百キロメートルで巡行する予定だ。ロナは時折キルスティと座席を交代しつつ、やや前方を先行するスクレロリンクスを追うように飛行を続けていた。
ロナは普段乗り慣れたハーストイーグルを失い、今はキルスティのマルティナヴィスのコックピットシェルに相乗りしている。
補助席は普段折り畳まれており、使用する機会はほとんどない。展開した席に身を委ねているロナの頬には与圧換気系統のわずかな風とともに、ほのかに甘い香りが漂っていた。
ロナの洟に通るキルスティの匂いが、テントで打ち明けたあの時、彼女に抱きしめられた胸の中を想起させた。
ここはマルティナヴィスの内部だ。機能的に配置された操作系統や武骨な計器類が並び、光る赤色の間接照明に浮かび上がっている。兵器然とした操縦空間であるはずなのに、そこに充満する女性的な香りにロナは戸惑いを覚えた。
少尉の前で何を考えてるんだ、俺は……。
そんな自分を戒めるようにロナは視線を落とし手元のハーネスを締め直し、かねてからキルスティに訊ねたかった事を切り出した。
「キルスティ少尉……」
「ん? どうした」
「レレイが守ったエディ、ジェフ、キャロル、ベラの四人に会うために、手紙を書きたいんです。何か方法はありますか?」
キルスティはグリップを握る手を少し緩め、思案するように視線を遠くへ向けた。
「ディタイに着いたら、キルチームの命令を出しているコントロール側に聞くことはできる。でも、まともな回答は期待できないだろう、あいつらは自分が口にする言葉以外に喋る頭がまるで無いようだからな、宛先探しから始まる手紙の受付には到底取り合ってくれるとは思わない方がいい」
彼女の返答にロナは眉を寄せた。
「……ジョンブラウンというエージェントと連絡を取ることができれば、話は早く進むかもしれないでしょうか」
「それは試してみる価値があるな、ディタイに着いたらそこの電信機でやってみるといい。事実上ロナを陥れたその男、最初は理由を付けて断るだろうがゴネてゴネて押し通せよ、防諜局のエージェントには手紙の宛先探しなんて朝飯前だ」
「そうですね……あの男に容赦はしないようにします」
それからキルスティはロナから子供達に送る手紙の内容をどうすべきか相談を受け、文体の体裁や検閲対象となりかねない文言を親切に細かく教えていた、その中彼女は赤く照らされた計器を眺めながら、これからの事を考えてどこか思案顔を浮かべていた。
「ロナ、これまで市街戦の経験はあるか?」
「いえ、ずっと識別線の前線警戒任務を転戦していました」
「出発前に説明した通りディタイは長期化した包囲戦が展開されている。軍民入り混じる血みどろの混戦状態だ」
軍民入り混じる市街戦とは、敵兵の支援を行う銃や爆弾を手にした市民や、無害な戦争被災者を装って情報収集を試みようとする者がそこら中に存在し、敵は軍服を着た軍人だけではない事を意味する。これから起こりうるだろう状況を整理できていない未経験のロナにキルスティが言葉を続けた。
「子供の姿を見ても、銃を手にしていたなら敵兵とみなせ、決して躊躇うな」
ロナは息を呑んだ。
「……了解です」
軍人として意味は理解できる。だが、実際にその場で冷静に行動できるのか、彼に自信はなかった。
「ロナ、お前は冷静に撃てるか?」
静かに問いかけられた。
ロナは言葉を失った。
思わず脳裏に浮かんだのは、戦地に潜む小銃を手にした子供の姿ではなく、エディ、ジェフ、キャロル、ベラの顔だった。小さな手でスプーンを握りしめていたエディ、ジェフは部屋の片隅で絵を描いていた、笑みを湛えて顔を見上げるキャロル、レレイに抱えられていたベラ。あのモーテルの事件で俺は子供達に何もできなかった。
ディタイの地で向き合うのは、似たような年齢の、しかも銃を構えた子供たちかもしれない、もし目の前に銃口を向ける日が来たら——。
ロナの指先が冷たくなる。
自分に、引き金を引けるのか?
沈黙が二人の間に降りた。マルティナヴィスのコックピット内は与圧換気系統によって一定の温度と空調が保たれているが、妙に息苦しさを感じた。ロナは、ふと視線を横にずらした。キルスティの横顔が赤い照明の下で静かに光を浴びていた。鋭さを帯びた目元、戦場での苛烈な姿とは違う、どこか穏やかで、それでいて決意を秘めた表情。
彼女の髪が、柔らかく揺れるのが視界の端に映った。
ロナは一瞬、返事を迷った。だが正直に言うことにした。
「……分かりません」
それを聞いたキルスティは少し微笑んだ。
「それでいい。そう言えるうちは、まだ人間だ」
ロナはその言葉の意味を反芻するように、じっと計器の赤い光を見つめた。外の世界は暗闇に包まれ、砂漠の地平線がかすかに見える。戦場ではなくても、この飛行が向かう先は命の捨て場所であった事をロナは再認識した。
キルスティの目には、どこか安堵のようなものが浮かんでいた。彼女もまた、戦いの中で失いたくないものを持っているのだろう。
「ロナ、自分が守るものが何であるか、それを見失うなよ、それだけを守るんだ。お前の目に映る弱い命全てを抱えれると過信していたら、全てを順番に失っていくだけだ」
「わかりました、キルスティ少尉」
現実を突き付けるキルスティの忠告をロナは素直に喉の奥へ落とし込んだ。彼女は横目で様子を見遣り、葛藤を乗り越える彼の表情を見届けた。
その時、無線機のスピーカーからオリバーの揶揄うような声が響いた。
「おいおい何だこの空気、息苦しい雰囲気になってねぇか? 俺は一人で飛んでるってのに、そっちが交代して乗られてると俺だけが割喰ってる気分だ」
キルスティは呆れたように肩を竦めた。
「オリバー、巡行とはいえ無線で私語は控えろよ、口数が多いばかりで傍受されて遭遇戦になったら最初に撃つのはスクレロリンクスなんだからな、その時余計疲れるのはお前なんだ」
キルスティとオリバーにとって、スレートドライバーですらない相手の単なる遭遇戦とは「多少疲れる」程度の取り留めもない作業であった。
「おっと、それは失礼。じゃあせめて、次の一時着陸の後、俺の負担をロナが肩代わりしてくれよ」
ロナは少しだけ息をついた。
「オリバー准尉、確かスクレロリンクスに補助席は無いでしょう」
「だよなあ……取扱い企業ってのは配慮が無いねぇ」
三人は微かに笑い、オリバーの軽口に緊張の糸が僅かにほぐれた。
「キルスティ少尉、そろそろ代わります」
「よし、頼む」
連続二時間に及ぶキルスティの巡行をロナが代わった。グリップから手を放した瞬間に駆動が停止するのを避ける為、彼女がグリップを握る左右の手を上から包み、腰を起こして補助席に移るキルスティはロナが準備を良しとした合図を受けて、滑り抜けるようにグリップから手を引いた。
交代飛行上必ず発生するプロセスとは言え、直に触れる彼女の手から伝わる温度にロナは職務上の建前では圧縮できない戸惑いを覚えざるをえなかった。自分の胸の下をするりと抜けて傍らの補助席へ身を移す際、さらりと香った彼女の匂いは輪をかけてロナの内心を乱していた。
駆体のコントロールを得たロナは邪念を振り払うように飛行へ集中するあまり、他所に追いやられた感情は自然にスピードへ昇華された。
「おいおい、ロナ、俺にスピード勝負を仕掛ける気か?」
「あ、違うんです、そんなんじゃない」
仕方のない事とは言え、手が触れただけでロナが見せた初心な戸惑いにキルスティはそっぽを向いて表情を隠した。
巡行の途中、遠くにそびえる巨大な山岳が視界に入った。
コルベリオンマリス——標高一万三千メートルを誇る高峰は、雲を貫き、まるでこの世界の果てを示すかのように聳え立っていた。岩肌は長年の侵食で裂け、露出した断層が地殻の悠久の時を語っている。突き立つ山頂付近は常に雪と氷塊に覆われており、陽の光を受けて鋭い輝きを放っている。
山頂付近は人間が活動出来ない低酸素故に踏破不可能とされ、現地民族の宗教上の理由によりメタルヒューマによる頂上降下も未だされたことは無い。
ロナはぼんやりと、大自然の巨峰を見つめていた。
「……コルベリオンマリス山だな」
駆体をコントロールするロナの右手に、左手を添えてグリップを触り駆体の視覚認識を覗き見したキルスティが短く呟き、オリバーへの無線を繋いだ。
「オリバー、電波障害を避けるため迂回する」
高度を微調整しながら、今はロナがコントロールするマルティナヴィスは緩やかに進路をずらした。かつてこの山は、地形の障壁として長きにわたり戦略的要衝とされてきた。電磁波を乱す鉱物が豊富に含まれているため、近辺を飛行するドライバーや固定翼機のパイロットとしては通信が断続的に遮断される忌避すべき難所でもある。
「オリバー、方位修正」
キルスティが無線でオリバーに確認する。
「了解。せっかくだし、俺達であの山頂を掠めてみるか? いい眺めかもよ」
「冗談言うな、時間のロスだ」
「わかってる……しかしデカいな、いつ見ても」
オリバーの言う通り、その頂はどこまでも高く、飛行しているにもかかわらず、自分たちが小さな存在に思えてくるほどだった。
ロナは高度計をちらりと見つつ、目の前にそびえるコルベリオンマリスの岩肌を眺めた。かつての大戦時、ここは常時メタルヒューマが入り乱れる激戦の地であり、それを戦略駆体のクレトクシリナによる空間射爆撃が一網打尽にして終結させた。
山肌には連なった葡萄の房のような巨大で歪なクレーターがいくつも刻み付けられている。
あの山を越えたらディタイは遠くない。
どこか不吉な予感を拭いきれぬまま、ロナはシェル内で無意識にコントロールスピアのグリップを握りしめた。




