EP#2「彼女」
駐留地から五キロ走ると、戦火に怯えながらも地元住民が生活を営む旧市街の宿場町がある。ここに暮らすのは爆弾で吹っ飛ばされそうになっても自分の土地が恋しい年寄か、それとも疎開するだけの金を用意できず致し方なくしがみつかざるを得ない、やむに已まれぬ事情があるかだ。
地域経済としては兵隊相手の酒と車両整備の部品流通、あとはもっぱら売春で成り立っている。
ロナの目当ては一角にあるモーテル兼スタンドバーだ、看板はだいぶ前、近くに落下した高射砲弾の衝撃で外れて落ちてしまった後は修理されず、店先に横たわりっぱなしだ。
モトを停めて店に入ろうとすると、男女の言い合いが耳に入った。
一方の女性はこの店の常連である見知った顔であった、世間話をする程でもないが、目が合えば軽い挨拶を済ますぐらいだ、というのも彼女が生業としている売春という職業柄、あからさまに馴れ馴れしく接するのもあらぬ誤解を招きかねないからこそ、面識はある程度の関係に留まっている。
しかし、何かトラブルに巻き込まれているのなら、黙って見過ごすという選択肢は無い。
「アンタ金はもう酒につかっちまったんだろう、帰ってくれよ」
「来週入るんだ、その時にカネは渡すからよぉ、ローラ、いいだろう」
ロナはバースタンドの入り口を塞いで揉めている二人の問題はしばらく解決しないだろうと踏むと、ローラに絡む赤ら顔をした陸軍兵士の肩を掴んで引き剝がした。
「てめぇ何しやがる!」
欠けた歯の間から臭気を漏らす兵士は酒が入ってる為か、バランスを崩しかけたが持ち堪えると逆上して迫ってきた。
「うるせぇよ、すっこんでろ」
左胸の階級章を指で示した、ドライバーは大抵の陸軍兵士より階級が高い。
「チッ、なんだぁドライバー様がよぉ!、てめぇみてぇなデカブツに乗って無きゃ戦場で威張れねぇ奴なんて俺ァ怖くねぇぞ!」
酒に飲まれて女に溺れて身を持ち崩すとはこの事かという薄汚い風袋、ロナの階級章を見るや先に手は出してこないものの女の前で引っ込みがつかないのか挑発を続けた、が、直ぐに同僚と思わしきもう一人の男がやってくると襟首を強く掴んで引き下がらせた。
「やめとけ分かんねぇのか、コイツはカスケード隊のドライバーだ、兄ちゃん本当にすまない、今の事は許してほしい」
「カスケ……ド、あ……カスケード……んあぁ!すまねぇ!知らなかったんだ、俺はもう行くからよ、無かったことにしてくれぇ」
階級差があるとはいえ、カスケード隊だからなんだって言うんだという疑問がロナの頭に浮かぶが、便利な名札なら様様な事だと些細な謎は水に流した。
「もういい、この酔っ払いをさっさと片付けてくれ」
男はどうしようもない男の肩を担いで去っていった、大抵面倒事を起こしがちな男には、甲斐甲斐しく面倒を見る役が近くにいるものだ。
「ロナ~! 本当にありがとう、あの兵隊何もかもが臭いし最悪なんだよ」
上着を羽織ってるとはいえ、紫のレースだらけのビスチェに、隠すものを隠せているのかギリギリのラインをしたミニの姿に、ロナは目のやり場を失っていた。
胸の前で両手を合わせて伝えられたお礼は、その言葉以上に寄った胸の谷間が主張されていた。
理性的で自身を律していると自負こそはしているが、その理性を失わせるために淘汰を繰り返して洗練されたデザインを視界に入れて耐えるよりは、彼女のウェーブがかった髪にでも視線を固定しておくのが手っ取り早かった。
「レレイだね、あの子は今上の部屋にいるから行ってきな」
ローラが手の先をひらひらとさせて指すのは、一階バーホールの上にあるモーテルだ。
「分かった、それとアイツがもしまた面倒を起こしたら、俺の名前を使っていいよ。多分そうしたら引き下がる」
大抵の軍人は自分より階級が上の人物から目を付けられるのを避ける、それが自分達の頭上を守るドライバーであるなら、彼の周囲からしたら頼むから余計な因縁を付けるなという厳しい目線になるだろう。
「いつも助かるよ、ここにはアタシらの事は気にせずいつでも来ていいからね」
「ありがとう」
「ロナ、レレイにもよろしくね、あの子にもいつも世話になってるんだ」
その時の彼女が見せた表情は昏がりで男を誘う仕事の顔ではなく、暮らしの中で見せる素顔のように見えた。
娼婦の物色や酒飲みで賑わうバーホールから二階に上がって、軋む床の上を歩いて部屋番号の無いとあるドアを開けると、歳も一桁だろう三人の子供たちが目を輝かせ、ロナの名を呼んで勢いよく駆け寄ってきた。
そっと屈んで、肩手で二人の男の子を抱き寄せ、もう片手で女の子の頭を撫でるロナの顔にはいつかの懐かしさを孕んだ笑みが浮かぶ。
黒髪のエディ、内気なジェフ、最近ませてるキャロル。
この子達はロナの子供ではない、このモーテルをシマにしている娼婦の子に、親を失った末に保護された子、人から人へ面倒事の押し付け合いの末にここにやってきた子、戦時下の混乱の中、守るべき親元を失った子達である。
「ロナ、おかえりなさい」
「ただいま、レレイ」
目線の先には彼女、レレイが髪を揺らしてこちらを見つめている。
ロナは子供たちの相手をそこそこに、腰をあげて彼女を抱きしめた、ロナは頬に小鳥のような口付けをすると、彼女は一間置いて唇にキスを返した。
唇が離れると、にこりとはにかむ彼女の髪から匂いがふわりと香った。
「前線で戦闘があったって聞いた、あなたの隊でしょ? 大丈夫だったの?」
「無傷で墜としたよ、楽な戦闘だった」
「顔に傷がついてる、手当しなきゃ」
「これぐらい何てことない、俺の事はいい」
彼女の鳶色をした瞳はロナを放さない。
睦み合う二人を他所に子供たちはロナの手荷物が気になってる様子。家に届くものはなんでも気になってしまうのは何処の子であろうと同じのようで、ロナは、これは君達のものだよと伝えて中身をいくつか取り出した。
「そうだ、レレイこれを」
「これ……どうやって手に入れたの」
ロナがバッグから取り出したのは本国から輸入されてきた粉ミルク缶だった、未開封で賞味期限は切れていない、この宿場町では到底お目にかかれない代物だ。
「二か月前に隊へ寄越すように要求したのが今更届いたんだ」
「ありがとう、あの子にすぐ用意するね」
これを必要としているのは、以前モーテルへやってきた破傷風で衰弱した娼婦が抱えていた子だ、抗生物質も事欠くご時世の中、彼女は適切な治療を受けられず小さなベラを残して事切れてしまった。
レレイは大事そうに両手で缶を受け取ると、早速とキッチンへ向かい湯を温め、手際よく準備を始めた。出来上がったミルクの温度を手の甲で確かめると、用意した清潔な布にミルクをしみ込ませゆっくりベラに吸わせた、ベラは弱った力でも精一杯ミルクを飲み始めた、吐き出すことも無く、大人しく飲んでくれる事に安堵した。
二か月がかりで手にした粉ミルクが何かしら口に合わないようなら無駄になってしまうし、次に手に入るのはいつになるか予想もつかない、気に入ってくれている様子を見て、次は同じ銘柄を頼める限り申請しようと決めた。
ロナは皮も破けたボロボロのカウチに座り、レレイがベラにミルクを飲ませる姿をただ、眺めていた。というのもこれほど小さな子を世話した事が無いものだから、他の三人の子とじゃれてレレイに任せるしかないというのが本音だった。彼にとって前線で活動する間、この時が最も安らかで、自身と周囲のあるべく姿を見つめていられる時であるのかもしれない。
自分が何者なのか、それは自らが成した事で決まる。ロナは自分が人を愛せる人間であると、子供を大切に出来る男だと、まるで言い訳のように、決して遊び半分で鶏の首でも捻るように、容易く敵のコックピットを貫ける殺人者等ではないと綺麗事で塗り替えて、目の前のレレイがベラを寝かしつける姿を見つめていた。
殺すことしか出来ない人間になりたくない。
人との関わり方より、殺し方ばかり積み上がってしまう。
人の手を取るより、撃ち殺した数の方が多いなんて嫌だ。
「エディ、ジェフ、キャロル、下のバーでおじさんが夕飯を作ってくれる時間だから行ってきなさい、ロナがくれたお土産のベーコン缶も持って行ってね」
ベラがベビーベッドで可愛らしい寝息を立てるころ、レレイは夕食の口実をつけて子供たちを出払わせた。
子供たちは楽しみにしていたベーコン缶を胸に抱えて階下へ去ったあと、彼女はロナを見つめると微笑みを口元に湛え、問うように首をかしげる。二人は物言わぬまま寄り添い、口づけをして、背中に手を回し、互いに漏れる吐息を塞ぎ合った。
寝かしつけたベラが起きないよう、ソファが軋まないように、レレイは嬌声を喉に留めた。
彼女のブラウスをはだけさせた。
ロナは温もりに直で触れた。
彼女はロナの存在を確かめた。
部屋の湿度が高まる。
上気した彼女の頬には、唾液が一筋垂れている。
手狭なソファからベッドへ場を移した。
戦時下のご時世、どんな人であろうと元の生活通り暮らしていく事は出来ない、生きようとしたなら本意に関わらず必ず泥を啜る事になる。選べるのは泥か土か、啜る泥の種類が何かという違い程度だ。
自分が汚れていないと錯覚出来るほど盲目になれない二人であっても、今この時は間違いなく真実であり、過去も、漠然とした未来も、全てを忘れていられた。愛情の在り処へ互いに惜しみなく注ぎ続けた。溢れても、飲み干しても時間の存在を忘れて求め合った。
「レレイ、戦争が終わったら俺の国で住むんだ、子供たちを連れて、一緒に暮らすんだ」
「うん、うん……」
彼女はロナを身の内で感じながら、ロナの見せる夢にただ、ただ頷いた。
「子供たちを学校に行かせて、俺は別の仕事をしていて、レレイはいつも家で迎えてくれるんだ」
「うん……」
甘い夢は、彼女の胸いっぱいに響いていた。
彼女は絶える息で気の利いた返事をしたくとも、その余裕はない。
レレイにとってはロナの見せる夢を見るしかない、選択の是非が無くとも、彼が口にする夢はあまりにも眩しく、甘く、何よりも美しく輝いた、戦争が終わったら等といつの日であるか誰にも見当がつかない、それでも彼の語る夢が、彼女が何よりも望む姿をしていた。
きっとその夢の通りになる、待ち受けるのは受難の人生などではない、願いは形にするためにある。レレイはこの夢は街路の水溜まりに浮かぶ妄想等ではなく、ロナと必ず共にする未来であると胸に抱いた。
ロナは彼女の存在を確かめ続けた。
彼にとって彼女だけが、自分の道であると思えているから、確かめ続けていないと立ちどころに消えてしまいそうで不安であったから。
人が簡単に死ぬ事を、自分の手は何よりも知っているから。
昏がりを秘めたロナの目尻に、憂いを察したレレイは、そっと手を伸ばして頬を撫で、細い親指は目元を優しく往復した。
「もっともっと塗りつぶしてあげる、どんなに汚れてきても、わたしが全部上から元通りにしてあげる」
レレイは顔を上げて口づけの後、体位を返して上に跨った。覆いかぶさって口を塞ぎながら、舌を入れて口腔内をなぞり、刺激に耐える彼に構わず体重を抜いては押し付け、留めを失ったカーテンのように垂れる長い髪は、ロナの視界全てを自らの存在で覆い尽くした。
互いに体力が尽きるまで求め合った、任務が無ければ翌朝までベッドの上で過ごしていたいと思いが募るが、ロナがここで過ごす時間は限られている。
別れの時刻が近づき、男女の一通りが終わった後もレレイはロナの精悍な胸元に頬を預けて力強い鼓動を感じている。
「次はいつ来れるの……?」
「二日か、三日後かな、いつ空くかわからないけど、時間があれば必ず来る」
「嬉しい、ずっといて欲しいから……」
食事の時間も押してしまい、別れを惜むように抱き合った後、ロナは身支度を済ませ駐留地に向けて宿場町を去った。帰路につくロナの体には背中や腰に彼女の手が与えた感触が痕のように甘い痺れを与え、鼻腔の奥にはレレイの髪の香りが残った。