EP#11「砂漠」
アタクマ砂漠と呼ばれる荒涼と広がるこの地は、海抜二千メートルを超えた高地にあり、所によっては五千メートルを超える丘陵となる。総面積は小国が収まる程に広大だ。砂漠と呼ばれていながら、砂の正体は粉砂糖のような粒子ではなく、固まって砕けた溶岩が永い年月をかけて風化した、角砂糖大の小さな黒い石が堆積して大地を覆う。
高い塩分濃度とアルカリ質の表層は植物の生息の一切を許さず、ようやく生物を見受けられるのは年に一度、上空を通過する渡り鳥のみであり、砂利の隙間から顔を覗かせるのは力尽きて編成飛行から落伍した鳥の白骨のみだ。
骸を食い荒らす小動物はおろか昆虫すら存在せず、肉を削ぐのは日照りと風である。落ちた鳥は身動きが取れないまま刻一刻と増幅する渇きを意識に焼き付けながら絶命を待つ他ない。
天がもたらす水は鳥の血肉のみであり、雨はここ四十年と記録に無い。何処に立ち、何処を見渡しても茫漠と広がる黒い地平線は、距離感を失わせ、進めた歩みの数を惑わせる。標高が高いが故の寒さと、薄い酸素は思考力を低下させ、不慣れな者を高山病に悶えさせる。
この地を深く知るトゥマカ民族は、アタクマ砂漠を魔の山と呼んだ。生命の存在を拒絶する過酷な大地の奥へ足を踏み入れないよう、魔が潜むと戒めとして語り継いだのである。
言い伝えられる黒豹の姿をした魔物は、迷い込んだ人間を遥か遠くから睨み続け、その視線は吐き気や苦しみを与え続けるという、やがて憔悴した獲物に黒豹は近づき鋭い牙で容赦なく切り裂くのだ。その姿に体毛は無く、石と鉄で覆われている、牙も、喉も、はらわたも全て黒い石と鉄で出来た飢えた猛獣である。
いくら獲物の血を浴びようが飲み干そうが直ちに体の隙間から地面へ流れ落ち、太陽の光が乾かし、渇きが癒えることは無い。それを知ってもなお、獲物を求めて彷徨うという。
渇きの魔物は、トゥマカ民族の古い言葉でパロゥーマと呼ばれた。
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炭の燃え滓のような砂利にロープと縄梯子の末端が投げ落とされ、上から黒く薄汚れたブーツが勢いよく踏みしめ、一点に向けて歩き出した。大股で力強く足を進める四肢の線は細く、くびれた腰にまで届く一結びされた金に輝くポニーテイルは揺れている。首の後ろに手を回し、口を覆っている酸素マスクを外して露わになった白く細い顎、唇はこの土地での活動で乾いたせいか、ややひび割れが見えた。
化粧でもすれば、ドライバースーツより街歩きの服装の方がより似合うだろう顔立ちは積み重なった疲労でやや強張っている。
色素の薄いブルーグレイッシュの瞳は、たった今まで身柄を預けていた駆体、マルティナヴィスを見上げた。逆関節の脚部を曲げ、人が真似するには不自然な恰好で座り込む体勢をして鎮座させている。
人間が存在するより遥か太古の海溝地層から発掘されたというそのシルエットには、見上げる度に違和感と同時に親近感を覚えざるを得ない。横ばった大腿部に、細い腰部、エス字を描く脊椎構造、まるで乳房のように丸みをして張り出た二つの構造物を持つ胴体。
仮面舞踏会に紛れそうなマスクは、いかにも貴婦人を連想させる。
腕部が上半身ではなく下半身から生え伸びているという点を除き、人間の女性的な外観要素を含むシルエットは、彫刻家が掘った先鋭的な芸術作品であると言われれば、そっちの方が合点がつくというものだ。
起源など誰も分からないメタルヒューマと呼ばれる物体は、人間の生み出した兵器を遥かに凌駕する力を持ち、戦場を容易く支配した。
見上げて眺める駆体には、表面に赤々と煌めく溶痕がいくつかあった、彼女は先の戦闘で被弾した箇所があとどの程度で自己修復されるか見込みを付けている。
彼女の優れた戦闘技術の甲斐もあって、四肢の構造物に欠損は無く、回避の際に掠めた烈弾が駆体表層をいくつか切り裂いたに留まる軽破であり、現時点の状態でも戦闘にほぼ支障は無いと判断した。
一日二日も放っておけば、勝手に元通りになっているだろう。
駆体の様子に留意する点は無い事を確かめ、乾燥のせいか長い睫毛を何度か揺らして瞬きをすると目線を戻し、軍用車両や行き交う兵隊と物資で賑う駐留地へ再び歩みを進めた。
戦場という男達が支配する場所には悪目立ちするルックスをした彼女を揶揄う者は、この駐留地にはもう少なくなった。忙しなく台車を押す兵士、装甲車両を点検する整備士も、彼女を目にすれば略式的であるが姿勢を正し敬礼を捧げ、彼女も都度それに応えた。
しばらく前にこの地へやってきた時ときたら、少尉の肩書であっても、つま先から上まで眺めてお目に叶う肉体と、自らの体躯とは劣ると見るや、下卑た揶揄を込めて舌を鳴らす真似をしでかす不届き者がいた。
彼女は言葉よりも先に繰り出した、視界の端から飛ぶ顎への拳で黙らせ、棒のように倒した上に、あんぐりと開いた顎に男根と見立てたM74手榴弾の柄を咥えさせて痴態の晒し者にして立ち去るであったり、先週、本隊が攻めあぐねていたセアラダクティルス二体を、自らの任務外と言えど見事仕留めて帰還を果たした事で、この駐留地における彼女は場違いな女などではなく、格上の戦士として周囲から畏怖を込めた眼差しを得るようになった。
いちいち分からせてやらねば、色眼鏡を外さない男ばかりな事にいい加減辟易している所である。
彼女は自身が詰所としている待機所のテントへ歩みを進める道すがら、積み重なった人の背丈程ある木箱の内、開け広げられている一つの中から缶詰を取り出すと、腰のナイフを突き立て缶の縁へ一か所の穴を開け、保存用飲料水を啜った。
口腔内に水が通る度、彼女の細い首は喉鼓を打った。
やや金属臭が拭えないが、生臭い水で腹を壊す事は二度と御免なのだ。
アタクマ砂漠は今、分水峰に立っている。この地を獲得する事は、空路に強力な航空輸送網を得る事に繋がり、より遠方の進軍を確実にする戦略上の重要地域である。敵にとっては、我らの補給空路を断つ事に加え、反撃困難な侵攻の一大拠点として成立するのだ。
駐留地には今後、一個戦闘団が集結する、機甲車両大隊に加え、砲兵大隊がやってきて、この地における決戦へと踏み込むのだ。
駆兵本隊はそれまでの間、自軍へと接近する敵駆体を近づけはしないと守備一点である。しかし、別動隊である彼女の任務は彼らとは違う。
詰所の大型テントを外界と隔てる幌を持ち上げ、半身にして体を中へ入れた。
中心にあるストーブの傍らで、パイプチェアに腰かけ、背中を丸ごと預けて天を仰ぐ一人の男は、彼女の存在に気付くと椅子から立ち上がり、姿勢を直して略した敬礼を捧げた。
「いい、気にするな」
「こういうのも一応、大事な事かなと、曲がりなりにも軍隊ですし」
恭しく定型的な振る舞いの割に軽い口調で語る彼は、短いブラウンの頭髪を額から撫でるようにかき上げた。
比較的長身の彼は、体重を抜いてパイプチェアへ一気に腰を落とすと、石炭ストーブの上で温めてあったケトルを手に取って傾け、アルミ製のカップに注いだ。ケトルの中身にはどうやら官品紅茶の茶葉が入っており、ふわりと湯気と共に香りが鼻をくすぐった。
彼女もテーブルにあるアルミのカップを手に取り、ケトルの紅茶を注いだ。
煮詰まりすぎで味もへったくれもないが、この際体が温まればなんでもいいという思いである。
帰投直後は次の戦闘に向けていち早く養生に努め、オールアウトを防ぐために体力を回復させなければいけない。彼は紅茶の次にストーブの上でケトルの隣に温めていたベイクドビーンズ缶を手袋越しに掴み、スプーンで掻き出しながら口へ運んだ。味気が足りないのか、小袋の塩を缶へ直接振って二口ほど咀嚼して飲み込んでから口を開いた。
「キルスティ隊長、ありゃ無理だ、二日後にもう一体やってくるとかいう仲間の増援を待った方がいい、出来れば弾避けにはなる腕前である事を祈るけど」
「オリバー准尉、こっちの増援を待つのもいいが、敵にも増援がいつ加わるか分からない、いつまでも埒の開かない数字の削り合いをしている余裕はもう無いんだ」
キルスティは足でパイプチェアを近くへ寄せて腰かけると、手にする紅茶へ砂糖の大袋を傾け、これでもかと注いだ、混ざり切らずに底に沈殿しているのも構わないのかそのまま口をつけている。
「それとな、この部隊に隊長という役割はいないからその呼び方はよせ、私とお前の立場は殆ど対等みたいなものなのだから」
「そういうんじゃない、俺は切り込み隊長って意味で呼んでいるんです、文句ないでしょう」
肩を竦めるオリバーに、キルスティはカップの湯気越しに眉を上げて応えた。
キルチーム03の構成隊員はキルスティ・レイ少尉と、オリバー・ハバート准尉の僅か二名のみであり、課せられた任務は砂漠に横たわる丘陵の向こうに陣取る、スレートドライバーであるピク・ルイセンコという男の殺害だ。シャットダウンではなく、間違いなくドライバーキルをした事を確かめなければいけない。
キルスティは語気を強める事無く、紅茶を含み頬を温めながら置かれている状況を淡々と語った。
「殺害期日まであと六日、二日後に来る増援を待てば残り四日、その時に敵の体制が今と同じとは限らない、今さっき強行した威力偵察では、ピクの僚機はもう一体のセアラダクティルスのみだった。たった今、この時だけが敵の最小戦力であるなら、逃す理由は無い」
殺害期日、それが何を意味するのか、二人は今更その意味を言葉にしない。
オリバーの口に運ぶスプーンの手は止まっており、目線は一点を見つめ、頭の中で先の戦闘を振りかえっている。二十六歳というドライバーの中では比較的若年の彼でも、同年代とは比較にならない実績を背景にした威力偵察の結果に対する熟慮は、表情へ年齢に似つかわしくない皺を眉間に寄せた。
口角を下に曲げ、いかんせんとも決断し難いと彼の目は語る。
「それについては同意見だ、しかしあのピク・ルイセンコとかいうアイツ、奴は上空にいる俺を間違いなく見ていただろうが撃ってこなかった、それは二つの可能性がある、楽観的に見ればキルスティ隊長の相手で精いっぱいだった、悲観的に見れば撃てるし当てられる自信はあるが、射程限界を計られたくない為だけに撃たなかったという事だ。アイツは今回やった俺達の接敵がやる気じゃない事を見抜いていたように感じる、であれば、次は今回のように易々と近づいてしまえばアイツの思うがまま、まんまと当たりやすい射程内に飛び込んだ二体をマト撃ちして終わりだ」
オリバーは紅茶を少し啜り、見解を述べた。
「アイツは俺のスクレロリンクスの主武装、カーマガに狙われ慣れている、何が当たって、何が当たらないか分かってやがるんだ、上空での俺の位置取りに対して、キルスティ隊長を相手取りながら、巧妙に移動を返していたんだ、そう簡単にキマりはしない」
彼はカップをテーブルに置き、小声で「当たればイッパツなんだけどな……」と呟いた。
オリバーが消極的姿勢にならざるを得ないのは、ピクルイセンコの駆るフォルスラコスという駆体から放たれる攻撃の数々があまりにも苛烈で、次々と連射される必殺と呼ぶべき攻撃を搔い潜り、自身の一手を与えるという事が到底イメージ出来なかったからだ。その理由の一つとしてフォルスラコスという駆体自体、近年姿を見せた新鋭種であり情報も少なく、出たとこ勝負にならざるを得ないという点だ。
基本的にありふれた駆体種別であれば、次に違う要素はドライバーであり、その性質さえ見抜ければ自分がミスをしなければ大抵勝負に負ける事は無い。今、不確定要素が駆体とドライバーの二つそれぞれ存在するという事が、彼の決断を押し留めている。
ピクが先の戦闘で使った武装は、どれも生成武装であり、恐らく駆体に元から備わるレシーバー等の武器は使っていなかった、その使わなかった武装があるのなら、それが一番の脅威であるから隠したのだろうと考えた。
「奴を仕留めるには、間違いなくスクレロリンクスのアウトレンジ攻撃が必須だ、私のマルティナヴィスが持つ武装アッダーは、ピクを相手には、自衛程度にしか通用しないだろう」
キルスティはカップの底に溜まる糖蜜と化した液体を一口で飲み干し、自身を過小評価しているとすら感じるオリバーへ言葉を伝えた。
「次の状況が二対二であるなら、やる事はシンプルだ、邪魔なセアラダクティルスを素早く無力化し、私がフォルスラコスへ切り込み機動制限を与える、その隙を狙ってスクレロリンクスがカーマガを上空から撃てるだけ撃ち下ろす、これしかない」
オリバーは黙ってキルスティの言葉を聞いた。
「キルリスト作戦自体、常にこんなバケモノと相対し続けるんだ、ハンティングでは二の足を踏んだ者から先に死ぬ、待つ者に生は無い。オリバーも今の今まで生き抜いた中で、待って勝ちを得た経験は無いはずだ」
オリバーは指で額を何往復か擦り「それはそうなんだけど」とその表情は語る。
「オリバー、私はお前が思う以上に、お前の事を信頼しているよ、かつて第三の眼と呼ばれた異名の実力は過小評価だと確信している」
「その呼び方は、勘弁してくださいよ」
「隊長と呼んだ仕返しだ」
キルスティは茶化して笑った。
信頼という言葉を受けた彼の表情は臆病風に吹かれた兵士等ではなく、覚悟を決めた眼差しをしていた。言葉に出さずとも、彼の答えを見届けたキルスティは「五時間寝たらここに集合、状況変化無ければ出撃だ」と告げ、ストーブの上で温めていたシチュー缶とテーブルのチョコレートを手に取り、テントを後にして寝床へ向かった。
オリバーは雑念を払うように、残りのベイクトビーンズを口へ掻きこんだ。
腹いっぱいにしてしまえば、少しは寝つきがよくなるだろう。
詰所の傍らにある木箱から、コーク瓶を取り出し、栓を弾いて開けた。
香ばしいフレーバーが鼻から一気に突き抜け、甘みが喉に流れ込んでいく。
彼は戦闘から帰還する度に、コークを一本開ける事にしている。
特にゲン担ぎというような大層な理由等は無いが、ただ、これを飲んだという事は、自分は逆説的に生きて帰ったことを自覚できる。
そういう装置としてコークを開けるのだ。




