馬鹿もすてたもんじゃない
私はあんまし頭が良くない。
料理も苦手で身長だけはやたら伸びてそっちに栄養を取られたのか胸はちっとも成長しなかった。
足は多分早い方だと思う。昔から馬鹿だアホだ脳みそ入ってんのか?と何とか言われたことがある。
事実だし、それをなんとも思わなかった。言われたら、そうだねと返せるくらいには自覚があった。
そんな私、イルジアは今自己嫌悪している。
「うっ…嘘だろ……」
お腹を抑えて力無く路地裏でしゃがみこむ。おかしいなとは思ったんだ、月ものが何ヶ月も来なくて、でも病院とか行くお金ないし。
きっと気の所為だって放置してた……ら、これだ。
嘘だ嘘だと思考がぐるぐる回る。心当たりはある、多分こないだ酔いつぶれて知らん男に連れられて宿で寝たことがあった。
まさかそんな雰囲気になると思ってなかったし、宿代割り勘にしようとしか言われてなかったし、まぁそのままペロリといただかれてしまったその日の朝。私は逃げた。
目立った特技のない私に頑張って探して唯一の特技としてあげるならそれは逃げ足が早い事だ。条件反射だった。隣で寝てる男の顔すら見なかった。てか髪色すら覚えてない。
でも自分の腹の中には別の命が宿っていることは空っぽになるまで胃の中吐き出して自覚した。なんかお腹膨らんでた気はしてたんだよ。太ったかなーとか最近仕事録にしてなかったなーって、そんくらいにしか思ってなかった。
たった一回、されど一回である。
愚かな過去の自分をぶん殴りたい気持ちは消えないが、このお腹の子も消えはしないのだ。嘘のようなホントの話。なら、しかたない。
しかたないでこの世に生を受けることになったことを将来責められやしないかと珍しく先を思い浮かべて見たけれど結局できたものはできたのだし。
私にこの子を下ろす考えもお金もないのだ、死にものぐるいで働いて食うものに困らせないように頑張るしかない。何せ相手なんてちっとも覚えてないんだし。
「とりあえず…豆食べよう」
確か妹を妊娠した時の母が安いし栄養あるしと豆をひたすら食べてたのを思い出した。まぁ私の母も私と似たような部類の人間なので信用していいかは分からないが。
それから私は頑張った。うんと頑張った。家族とはもう何年も会ってないし相談する相手もいないのでひとりで頑張った。さすがに仕事先のお客さんに気付かれたり、仕事をくれるおじさん達に大人しくしてろ!と怒られたりもしたけれど。
だってこの子には私しかいないんだ。性別もなければまだ名前も浮かんでないわが子。お腹の中で動いて生きてる事を教えてくれる親孝行もの。今からこんなにいい子なんて将来とんでもない頭のいい子になるんじゃないかと生まれる前からソワソワして、すぐに正気に戻った。
「無理か、母親が私だし」
随分と大きくなって、足元も見えなくなった。歩くのも必死だし、落ちたものなんて気付いても拾えなくて途方も無く立ち尽くすか覚悟を決めてしゃがむかしかない。
すごいなお母さん、こんなこと三回もしてたんだと親孝行もしない馬鹿娘は思ったりもした。
「イルジア?」
「っ」
顔なんて覚えてない。髪色すらもしっかり見ることなくあの日私はあの宿を飛び出した。でも、唯一忘れなかったことがあった。
私を呼ぶあの男の声だった。
なんでそうしたかは分からない。既に足は勝手に走り出していて、少し後ろめたいようなそんなぐるぐるとした感情に振り回される。
結局振り返りもしなかったから顔も髪色も分からない。だけどあの声の持ち主はこの子の父親だと確信はした。
いつぞやの路地裏の近くの階段に腰掛けて深く息を吐き出す。逃げてしまった。お腹に子がいるのに。あの男にだって子供が出来たって話を知る権利はあるのに、なんでか怖くなってしまって。
「っなんでそんなお腹で走ってるんだよ!」
お腹をさすって途方に暮れる私にまたその声がかかる。とうとう私は顔を上げて目の前で息を荒くしてじろりと見てくる男を見つめ返した。
真っ黒な髪で健康的に焼けた肌。筋肉質で、不機嫌そうな夕焼け色の瞳に私は産まれてくる子はこの瞳を貰って欲しいなと思った。
「あの日なんで先に帰った」
「いや、その」
「そのお腹の子は俺の子か」
「この子は……」
あんな一回きりだった相手をこんなに追いかけ回して、名前も覚えてて、なんでってぼんやりとそればかり考えてしまうからまともな言葉なんてでやしない。
「まさか…お前俺の事誰だかわからねぇとか言わねぇよな……?」
「はいっ」
あ、それだけははっきり言える!と思ったら反射的に答えてしまって目の前の厳つい顔がもっといかつくなった。
頭を抱えてしゃがみこむ男を見下ろして、なんか胸がうるさくなるのを感じる。痛いくらいにドクドクいってて落ち着かない。
「イルジアの働いている行商人のおっちゃんに何度か雇われたことがある傭兵のギルだよ、名乗るのは三回目だ」
「三回目……」
「あの日は仲間達と飲んでて酔いつぶれてるのを見つけてつい声掛けて部屋に誘って悪かった」
「いや…ついて行ったの私だし…」
「……どこまで覚えてるんだ?」
え、何も覚えてません。髪色も瞳の色も今見て思い出したくらいだし、と答えようとしたら「もう顔でわかる」とより落ち込まれてしまう。
「あーくそっ、振られたわけじゃなかったんだな!?もう一度言うぞ、今度は忘れんな…俺と結婚して欲しい」
「へ?」
ぽかんと唖然としてしまう私にギルは苦笑いをして困った顔のままポケットに手を突っ込んで、不格好な指輪を取り出した。
凸凹で、ツルツルしてるけど宝石はすんごいちっちゃいのが一個だけ付いたようなそんな指輪。
「何度も何度もアピールしてもスルーするし、デートに誘っても頷かねぇし、の割に部屋には簡単についてきて酔っ払ってる時の方が話が通じるってなんなんだよ」
え、なんで怒られてるんだろ私。
「俺は忘れてねぇかんな?あの日笑ってくれたイルジアの顔」
指輪はするりと私の指に収まって、やけに馴染むその指輪が私のことを思って用意したものだろうと言うのは分かる。告白して、一夜を共にして寝て起きたら相手に逃げられたと思ってても捨てられなかったとギルはまた困ったように笑って。
「私馬鹿だけど」
「おう」
「察し悪いし」
「身に染みてる」
「料理下手だし」
「俺は得意だぜ」
「失敗ばっかで」
「でも諦めが悪いことも知ってる」
何言ってもこの人はきっと私を受け入れるつもりなんだと分かると、なんでか涙が出てきて。やっぱり不安だったのだと思う。産まれてくる子を私がちゃんと育ててあげられるか。ひとりで頑張ろうとしても失敗ばっかしてる私が子供の人生背負えるか。
「結婚してくれるか?」
「うあぁぁん」
「それは返事なのかよ」
呆れたように笑うその声が耳に優しくて、その声もお腹の子は似てくれるといいなと思った。
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「産まれたぞ!!」
疲労困憊の私の手をぎゅっと握ってギルが泣きそうになりながら笑う。逆の手には産まれたばかりのわが子がしわくちゃの顔でもにょもにょと口元を動かしていて生きてるのだと抱かせてもらった重さを噛み締めた。
「男だぞ」
「髪色は私に似て茶色ね」
「あぁ、綺麗な色だ」
私はギルの黒髪の方が綺麗だと思うけど。そう言えずに指で我が子の頬をくすぐると嫌そうに少し目が開く。その仕草も薄く空けられた瞼の向こうの色も、不器用なギルと良く似ていた。
たった一回、されど一回。あれ以来お酒は飲んでいなかったけど、あの日私はあの場所で酔いつぶれてたことを、少し誇りたくなった。
ロマンス小説とかには絶対乗せられないだろうけれど、馬鹿でも私は私なのだから。
馬鹿もすてたもんじゃないよね。