プロローグ
(くっそ、こんな目に会うなら真面目に屋敷で勉強していればよかった……)
少年は悪態を付きながら目を開けると、今しがた滑り落ちて来た高い崖と森の木々の隙間から見える青空が今更ながら恨めしく感じていた。
――ズキッ!
「痛ってえ」
体を動かそうとすると、右足に激痛が走り立ち上がる事さえ儘ならない状態だ。それ以外の場所も擦り傷だらけでジンジンと痛む。横を見ると、腰に着けていたはずの革カバンが外れて落ちており、父親の部屋からこっそり持ち出していたポーションの瓶が中で割れてしまったらしく、表面にシミが広がってゆく。
(オレ、このまま死ぬのかなあ…)
情けない気持ちが大きくなり、目に涙が溢れ出した瞬間、突然誰かに声を掛けられ驚きと恐怖で体が硬直する。
「ねえ、なんでこんな所で寝ているの?」
「え?」
恐る恐る声のする方へ視線を動かすと、自分を見下ろしてる子が目に入った。見た感じ同じ年頃だろうか?白いボサボサの長い髪と金色の瞳に小麦色の肌、そして薄手の白いワンピースを着た女の子。ただ、その子が普通の人間ではないのは一目でわかる。風でなびく髪の隙間から見え隠れする黒い角と背中の小さい羽、そして股下の隙間から見える尻尾が左右に揺れている。
(や、やばい、こいつ魔族だ…)
そうわかると、恐怖で額から汗が流れ落ちるが痛みで体が思う様に動かない。そんな少年の気持ちを知ってか知らずか魔族の少女は一通り周りを見てから少年に目線を戻すと口を開いた。
「そこの崖から滑り落ちてしまったのね?足の傷が一番ひどいわ」
そう言いながら、肩に掛けていた小さなバックを開け、おもむろに手を突っ込み中から何かの草を取り出すと、パクリとまとめて口に含み租借を始めた。
少年はわけもわからずモグモグと口を動かす彼女を黙って見ていると、次に腰から水袋を取り傷口に付いた泥を洗い流してくれたのだが、今度は先ほど口に入れていた草だった緑の物体を自身の手に吐き出し、その足の傷に塗り付け始めたのだ。
「痛った!ちょ、お前汚いだろ!やめ…」
「…動かないで、傷が化膿してこのまま放置すると足が壊死してしまうわよ」
さすがに見た目の印象が悪すぎて少年は抗議の声を上げるも、少女の静かな圧を感じる言葉に黙るしかなかった。
(あれ? 足の痛みが小さくなってる)
右足の傷に緑の物体を一通り塗り終わると、彼女は立ち上がり自分のワンピースの裾をナイフでビリビリと細長くおへその所まで切り取り、それを包帯代わりに少年の足にグルグル巻き始める。
「お、おい、そこまでしてくれなくても」
「気にしなくてもいいわ、古着だし」
(いや、そこじゃ……って)
半分になったワンピースとパンツ姿で今度は顔を寄せて腕や頬の擦り傷をペロペロと舐め始めた。
「お、お、お、おまえ何を…」
頬を猫の様に舐められ、あまりの恥ずかしさに声が裏返って少女を引き剥がす。
「あれ?まだ痛かった??」
特に気にする様子もなく、あっけらかんと不思議そうな顔でのぞき込んで来る金色の瞳に引き込まれそうになりながら少年は赤くなり慌てて視線を逸らす。
「い、痛くない…もう大丈夫だから」
不思議と彼女に舐められた擦り傷は治ってはいないが、痛みは殆ど感じない。
「そう?よかったわ……あら?」
少女は少年の横に落ちているカバンを拾い上げると、中にあった割れているポーションの瓶を手に取り僅かに残る赤色の液体を興味深くジッと眺めている。
「そんな物持っていると、ガラスで手を切っちゃうぞ」
「ねえ、この液体は回復ポーションって言う薬品でしょ?これって飲むの?傷に直接かけるの?」
「え?場合によって使い分けるけど……」
「へえ、そうなんだ~、で、どうやって作られるの?」
「知らないよ、そんなのわざわざ作るより買った方が早いじゃん」
そう少年が主張すると、少女は指を唇に当てしばらく何かを考える様に赤い液体を眺めてから顔を上げ笑顔で振り向く。
「……それはそうよね。さて取り合えず魔物が血の匂いを嗅ぎつける前にさっさと崖上に昇りましょう」
「そんな簡単に…え?」
言うや否や少女は少年をヒョイっと軽く抱き上げると背中の小さな羽根を目一杯広げながら落ちて来た崖を山岳動物の様にトントントンと軽快に駆け上がり、あっという間に元居た崖上へと昇り切ってしまう。
「それじゃ、迎えも来た様だしこんな所に近寄ってはだめだよ」
「ちょ!」
少年を木陰に下し、遠くからこちらへ向かって来る馬車が見えたのを確認すると、少女は少年に手を振りそのまま崖を飛び降り、滑空しながら森の中へと消えて行ってしまった。
(なんだよ、お礼の一つも言わせないで)
そう思いながら彼女の消えた森を何時までも眺めていた。
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