03-22.最後の準備(1)
「えっ、絢人?」
突然、リビングの床に横たわったまま姿を現した絢人に紗矢が驚く。ほぼ同時にメディアも実体化してきたところを見ると、彼女が[転移]で絢人を連れたまま跳んで来たのだろう。
彼女が絢人を訓練すると言って邸を出て行ってから、まだ30分と経っていない。少なくとも日没近くまでは戻ってこないだろうと思っていたのに、何があったというのか。
「ちょっとメディア!一体何があったの!?」
「心配ないわよ、ちょっとまた“暴れ”の症状が出始めてるから訓練を打ち切ってきたの。今日意図していた課題は一通りこなせたから、それ以上は無理をさせることもないでしょうし」
やはり霊力の暴走がまだ収まっていないのだ。そう思いつつ紗矢が絢人の顔を確認すると、確かに疲れてはいるようだが昼間ほどには苦しそうな表情ではない。
「心配ないなら、いいけど……」
「ではまた、某が部屋まで運び入れよう」
「そ、そうね。お願いできるかしら孫七郎」
気遣わしげに呟いたそのすぐ傍で実体化してきた紹運の提案を紗矢は容れた。傍目にはいきなり姿を現したようにしか見えないが、彼は霊体化していても紗矢の傍を離れないし、経路を通じて繋がっている紗矢には彼がどこにいるのか常に把握できているから驚くこともない。
「その必要はないと思うわよ。ちょっと命のやり取りをしての精神的な疲労も含めてのことだから、少し休んでいれば大丈夫。夕食まで、そのソファにでも寝かせておけば良いんじゃないかしら」
だが紹運の申し出を、そう言ってメディアは否定した。もうじき夕食だから、寝かせるよりも夕食を取らせた方が回復には良いだろう。
「左様か」
一言で了承の意を示すと、紹運は絢人を抱き上げてソファに横たえさせ、そのまままた霊体化して消えてしまう。実体化したままでは紗矢の霊力を常に消費し続けるし、絢人の教育係としてメディアが常に実体化しておく必要がある以上、召喚者に無用な負担を強いるべきでないと彼は考えているようだった。
「ん……。⸺あれ、ここは……リビング……?」
もぞもぞと身じろぎして、絢人が頭をもたげた。周囲を見渡して、黒森邸のリビングに戻って来ているのを認識したようだ。
「気がついた?なら、靴くらい自分で脱ぎなさい。ソファの上に泥を上げないでよね」
ひとつ息を吐き、紗矢が絢人の頭から少し離れてソファに座り直す。あからさまに安堵したのが第三者の目には明らかだ。第三者がもしそこにいれば、だが。
「もうザラが夕食の準備に入ってるわ。だからそれまで、そのまま休んでなさい。
……キツいようなら、また手を握っててあげましょうか?」
「ん、分かった。
……いや、いい。多分大丈夫」
紗矢の遠慮がちな提案をやんわりと断って、絢人が靴を脱いで、それを取り落とすように床に置く。そのまま身体を伸ばして、彼は腹の上で手を組んで目を閉じる。
紗矢は座り直した位置まで自分のティーカップを引き寄せて、カップに残っていた紅茶を飲み干した。
「貴方も霊力のコントロールを覚えないとダメね。一戦ごとにそれじゃ先が思いやられるわ」
「うん……悪ぃ」
それきり、ふたりとも黙ってしまった。
炊事場の方に行っていたメディアが戻ってきて、そのぎこちない彼らの様子に目を細めていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「いい?自分の霊炉に意識を集中して、それから稼働させるの。稼働させたら、霊力を身体の隅々まで行き渡らせるように意識して、全身に循環させるの」
夕食を終えて、紗矢が絢人に霊力コントロールのレクチャーを始めている。紗矢自身も幼い頃に言い聞かせられて、それから毎朝の習慣としてずっと続けているやり方だ。
「んー、なーんかまだ自分の意識で何とかなるものだって自覚が薄いんだよな……」
説明を受けても、絢人はあまりピンと来ていないようだ。
「そんなの慣れよ慣れ。いいからやってみなさいよ」
「って言われてもなあ……」
「絢人の霊炉はまだ1本だけだからな。その1本は基本的には常時稼働しているものだから、実感に乏しいものであるには変わりなかろうな」
夕食の片付けを済ませてリビングに戻ってきたザラが言う。
戻って来ているということはザラも炊事場での夕食を終えてきたということなのだが、使い終えた食器や残った料理を下げてから30分も経っていない。そんな短時間で食事に加えて洗い物まで済ませてきたのだとすれば相当な早食いということになる。
本当にちゃんと食べてるのかしら、などと紗矢は思ったりもするのだが、余計な詮索をすればザラに殴られるだけなのでスルーする他はない。
それはともかくとして、魔術師というものは通常、覚醒しただけではそう呼ばれることはない。覚醒したのち修練を経て、霊炉が2本以上に増えてから初めてそう呼ばれるようになるのだ。
つまり、現時点の絢人は正確にはまだ魔術師とは呼べない。魔術師の卵、あるいは孵ったばかりのひよこといったところか。
「……ねえザラ」
「なんだ?」
「私が絢人の霊炉を起動させてあげたらダメかしら?」
紗矢が言っているのは、要するに絢人の霊炉を最初に活性化させたアレのことである。絢人自身が上手く起動させられないのなら、ひとまず外部から起動させてみて霊力が巡る感覚だけでも掴ませる方がいいのではないか。紗矢はそう考えたのだ。
「ダメだな。それで霊力が暴走したからコントロールを覚えさせるという話になったのだろう?」
そしてザラの言うとおりである。卵が先か鶏が先かという話にもなりかねないが、外から強制起動させて暴走に至ったのだから、コントロールを身につけさせるために強制起動させるのは多分に荒療治に過ぎるだろう。
「……じゃあやっぱり、貴方が自分で起動させるしかないわね」
「うーん」
結局のところ話が振り出しに戻ってしまい、紗矢にそう言われてしまう。絢人としては困ってしまって唸るしかない。
あと絢人に考えつく手といえば。
「なあ、魔術撃ってみたら起動したりしないか?」
先ほどのメディアとの特訓、魔獣を相手に霊器の魔杖で魔術を撃った時には確かに体内を魔力がかけ巡るのを感じたものだ。あれはきっと体内で霊炉が起動したからこその魔術の発動なのだろうし、そうであれば、魔術を使うことを霊炉起動のトリガーにもできるはず。
しかもその時はすぐに霊力の暴走を招かずにきちんと最後まで戦えたのだから、暴走に至るまでにコントロールしてしまえばいいだけなのだ。
「そうねえ……。貴方がその方が起動させやすいというのなら、それもひとつの手かしらね」
「まあそうなんだが、一応言っておくと、魔術の起動と発動に霊炉を使うと、その間はお前の霊核を維持する霊炉が『無い』ということになる。なるべくそんなリスクは負わぬに越したことはないぞ」
消極的とは言えないまでも含みのある言い方の紗矢と、サラッと聞いてて怖くなる言い方のザラ。これはどっちの方がより絢人の身を案じているのか。
「えっ今なんかめっちゃ怖いこと言いました!?」
「怖いも何も事実だ」




